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すっかり再現芸術、化粧直し芸術と化したクラシック音楽と、同音楽史という目に見えない音楽植物から20世紀以来身をもぎ離し始め、一大花園を形成しはした現代音楽という作曲分野。そこには個性と独創性に優れたものも少なくないが、そのどれも自らを起点として生長繁茂開花結実、端的にいえば芽吹く力が微少で、まるで「終りの世界」を覗くようである。
目を大衆音楽に転ずれば、楽曲から即興演奏気味のものに至るまで、クラシック音楽から栄養素をもらっている様子がありありである。エントロピー増大の法則による文化の俗化現象であろうが、それだけ子孫を養うことのできる優しい父母先祖がクラシック音楽だということであり、その手助けを現今の音楽関係者達はクラシック、大衆音楽の相互の協力で実践している。
この親の脛かじりにクラシックはいつまで耐えられるだろうか?これが一つの問題だが、それより更に深刻化するのは将来の大衆音楽の作曲家編曲家達が、現代音楽の脛を齧ろうとしないことなのである。現代音楽の屈指の楽曲にせよ、子供たちに甘えてもらえる親、という感じではない。ここにも、本家本元のクラシック音楽植物の芽吹く力を復活させねばならない理由がある。その復活劇の機会を与えてくれた(11月12日のアンデパンダン展のこと)本会に、私は心から感謝したい。
肝心なのはその方法であるが、天然脳を駆使するのが一番だ。個々のクラシックの楽曲も同音楽史という植物も、実はそれに支えられてきたのである。天然とは単なる自然とは違い、天然×宇宙意思。そして天然脳とは、天然性ある脳、生き物の持つ脳全て。また宇宙意思を聴き取る脳のことだ。
音楽があらゆる芸術の中でも天然性に与るところが大きいことは、かの安直な言い回し、「音楽は万国共通の言葉」に端的に現れている。「宇宙意思」など、教養主義には受け入れがたいかも。だが、いわゆる可視光線・可聴音波以外の宇宙の波動振動は無限にあり、人間も含めた生き物も万物もそれを受信。一人の人間とそれの関わる波動との関係は、テレビ映像と電波の関係に似ていよう。
クラシック音楽の発端はグレゴリオ聖歌まで遡れるが、そこでロクリア旋法を除外したとは、地球環境を無視し、その後、魔女や黒猫の駆逐さえ行ったキリスト教らしい判断であった。だが、それこそが早々とその正当な作曲力を喪失した原因とみるのは筆者だけであろうか。各調Tから半音下のZは「影の音」。象徴と偶像は峻別されねばならない。