日本現代音楽協会主催 2021 フォーラムコンサート 12月2日18時半於:東京オペラシティリサイタルホール
ロクリアン正岡の出品曲
二重奏曲「不可知なるものへの往信」-ピッコロPic.(フルートFl.)+チューバTub.
この楽曲が語っていること:「現世の始原からの寸分違わぬ流れから超奇蹟的に今の自分がある」「音楽は時間ベクトル上の出来事に過ぎない」「死んだら胎児以前と同様、無化されるのみ」、以上はすべて誤りだ。それは現象に心を奪われているからだ。
人間には、矮小な微粒子から大宇宙に至るまで現象に過ぎぬと見えるし思えもするが、どっこい!そこには例外なく“存在”というものが効いている。宇宙の発端から最後までずっとである。だからこの世は根無し草ではないのだ。ところが存在の方は現象以前のものである故この世がなくても我々一人ひとりが無くても存在している。
存在は永遠であり常に有である。そういう「存在/存在性/存在力」を人は自分との関係において「神」「イデア」などと相対化していろいろと述べ立てているが、本来的に「不可知なるもの」であろう。
確かに音楽は音を必要とし単なる音にも存在力は働いている。だが「存在」を作者/演奏者/鑑賞者が感得出来るようになるためには、個々の瞬間に永遠との接触が無意識裡にではあれ実現していなければならない。絶えず変化し身を新しくすることなくして存在を感じさせられないところが時間芸術である音楽の宿命である。そこが絵画と違う。「人間から絶対に不可知な“存在”に帰属する魂は生命を超えて不滅であり、死点は通り道に過ぎない。我、感謝を込めて往信し続けるのみ」
詳しくは電子書籍NEW COMPOSER Vol.15の中の拙論文に。
セットの第3曲のための詳細な説明:小編成吹奏楽曲「美人ミイラ蘇生物語」 1)“音楽自体においての大きな物語創出”の試み。 説明:新作オペラ他、大河ドラマのテーマ音楽など、すでに存在する大きなドラマを なぞった劇伴的〔比喩的意味で〕なものとは違ったものです。 2)個々の魂は死によって途切れない。だからこそ一生一生を大切にとの表明。 説明:“生命(いのち)への愛”を絶対的に肯定。ただし、個々の魂が有する“生の テリトリー”、すなわち「この世での生」「あの世での生」の区別は大切だ、という ことです。 3)死者への畏敬の念と、蘇生させようとする熱意との相克の描出。 説明:この世に有る者の生へのこだわりはいかにも根強い。だが死者、あるいはあの 世を侵(おか)しては成らないという畏敬の念もあり、死者の蘇生を巡っての葛藤は 本能から宗教、そして哲学まで撒き込むほどの内面活動であるに違いない。これに関 して音楽はどのような能力を発揮できるか? 4)人々(消費者)を煽りまくる不満助長+欲求満足装置=科学技術の傲慢と妄信への 疑問の提起 説明:未来へ向けて、再生医療を中心とする科学技術が、昔からの不老不死願望を煽 りまくろうとしている現代、「魔法使いの弟子」や「フランケンシュタイン」的警告 能力を音楽に持たせること。 この楽曲では美人らしきミイラに対面した若き有能な科学者=再生医療師が当初から 抱いた恋心の加担もあってこの難業を強引に成功させたとしても、本当の人間は魂 あってのものとすれば、科学の力で身体だけ再生、蘇生させる事が出来たとしても、 土台、無理が有るのではないか、ということが練習番号10以降に示される。 5)元来、独特の動性と浮遊性を有する減七和音(三個とも)を中軸に据え、この曲 全体の和声原理とする。 説明:調性感を曖昧にする「悪魔の三全音」の権化としてクラシック音楽に於いては 遠慮がち(限定的)にしか使われず(ベートーヴェンは多少、多目)、現代音楽に於 いては、無調的ではあるもののありふれた既製品として省みられなくなっている減七 和音ですが、私はその潜在能力を思い、以下の両義牲に注目しました。 イ)ですから死語のような物としてみれば、減七和音はミイラのような存在だといえ ましょう。 ロ)ですが、実際はミイラどころかまだ息をしており、使われ方によっては他の和音 が真似のできない機能を発揮できる現役の道具とみれば、むしろミイラを蘇生させよ うとする再生医療師が腕を振るうための手や道具の方だと言うこともできましょう。 ハ)生を拒みあの世にとどまろうとするミイラとこの世へ引き戻してまでも蘇らせよ うとする再生医療師〔科学者〕がつばぜり合いを演じるこの音楽劇に於いて、当和音 「減七」は両方の役柄を演じてくれるかもしれない、と期待して作曲をはじめまし た。 ニ)なお、多くの人にとって耳慣れたこのディミニッシュコードの多用は、演奏、鑑 賞双方における難解さの軽減に寄与するかと存じます。 6)音楽民主主義=各パートの自立と相互平等のための、徹底した対位法の使用 説明:折角の室内アンサンブル型吹奏楽です。 対位法はまだまだ民衆が虐げられていた古い時代に端を発したものですが、作者に とっては、どのパートも掛け替えのない主役であることを示すのに格好の作曲技法で す。その意味もあり、チューバの活躍は目立つかもしれません。 7)音楽に深みを与えるため全体を落ち着いた中間色で統一。 説明:一発勝負には弱いかもしれないけれど、何度聴いても演奏しても飽きないこと を優先した。そのために、迫力表現部分も耳が疲れないよう、繊細嗜好の許す範囲内 にとどめてある。-人々の心奥深くへと浸透してゆく事を願いつつ。 8)外観、内容ともに複雑で高度かもしれないが、演奏、鑑賞双方に於いて各部分も 筋道も掴みやすく理解しやすい。 説明:室内楽にしてはパート数も音量も多め、吹奏楽としてはパート数も楽器数も少なく音量は小さめということで、 「にもかかわらず、如何に@各パートの動きが見えるようにするかA全体として良く鳴るようにするか」に腐心いたしました。 そのためにも6)の対位法を駆使したのですが、5)で強調した減七和音という一人 二役の和音の響きと機能を活かすために、その他の和音や複合和音、偶成和音等も随 時活用しております。 |
以下はコンサート当日に初めて配られる日本現代音楽協会プログラム冊子に載る拙文に近いものです。 |
20170201日本現代音楽協会主催アンデパンダン展第一夜のチラシ |
いつもながら、芸術に本格的なものを望まれる方々には打ってつけの内容になっておりますが、その一方、いささか軽いお客様、つまり、魅力とか可愛らしさを好まれる方々にも楽しんでいただける工夫も致しております。力量ある6人の方々の協力を得て、ロクリアンM得意の合わせ技により多面性、多義性迸る音場が現出されることを目指します。 ―会場でお会いできることを楽しみにしつつ 2015.7.7ロクリアン正岡
「様々な音の風景」 ●10月12日(月・祝日)16時半開演 会場:すみだトリフォニー小ホール (錦糸町駅より徒歩5分) 日本音楽舞踊会議主催のコンサート「様々な音の風景」にて同編成の私の作品とともに初演されます。演奏者はクラリネットが内山厚志、ヴィオラが渡邊田鶴野(たづの)のお二人。作品は組曲「泣きたい女性のための二重奏曲」 PS音源ですが、動画アップしております (ユーチューブ、ニコニコ動画とも) |
「アンデパンダン展」 ●11月08日水曜日 18時半開演 会場:オペラシティリサイタルホール (京王新線初台駅よりすぐ) 日本現代音楽協会主催、アンデパンダン展第一夜にて念仏楽曲「時を貫く“南無阿弥陀仏”」 初演 演奏、バス歌手:松井永太郎、クラリネット:内山厚志、ファゴット:塚原里江、チェロ:松井洋之、マリンバ:會田瑞樹、 指揮:齋藤純一郎 |
・2014年12月29日 動画アップロードしたばかの正岡泰千代時代のカンバス・ミュージックの詳細
私(当時の正岡泰千代)が1990年ごろからの数年間作曲しコンサートも開いてきたカンバス・ミュージック(C.M)、そしてカンバス・コンサート(C.C)にご出演いただいた方々、スタッフの方々、お客様方に感謝しつつ― 2014年末、カンバス・ミュージック、カンバス・コンサート時代の古い作品動画を数多くネットに掲げることにした理由。 現在の私は過去からの自分に支えられつつ発展の過程にある、という思いはあるが、その時々の仕事の特性、作品の個性を考えれば、優れた意味で「作曲の一回性」ということを認めないわけにはゆかない。同じ自分ではあっても、その時々の生々しい生に支えられた志向や執着という奴が効いているのだ。 1990年頃からしばらく、私は絵画との愛に埋没した。 原画をあるいは絵葉書を画家から借りて来ては食い入るように見つめつつ、シーケンサーに音を打ち込んで行った。その対象には、かの まず、作品を提供しコンサートにもご参加された画家の名前を列記させていただく。 幸いなことに皆さんご健在で活躍されている由。 桐弘史郎、、多田夏雄、寺久保文宣、木俣創志、寺井浩一、田口安男、園部雄作 以下、最後の私自身の文章にしても、今の私からすれば若書きの観は否めないが、それでもカンバス・ミュージック(C.M)の魂がそのまま露出しているからこそ、そのまま掲げることにした。 次の文章は第4回目のカンバス・コンサートにみえられた、文学者、故宇佐美英治氏のものである。(「音楽現代」誌より) (前略)その催し「絵画と音楽の結婚・・・・・・二つのカンバスの合体を求めて」というもので、正岡氏がかねてそれぞれの絵に即してシンセサイザーで作曲した六点の絵が会場に持ち込まれ、曲ごとに対象となったその絵が奥の壁に掛けられる。室内を埋めた聴衆は照明を当てられたその絵を凝視しながら、シンセサイザーによる氏の曲と指定に従ったフルート、13弦、ピアノなどの即興演奏を聴くというわけである。フルートは野口龍氏、箏は田中美香さん、ピアノは作曲家自身が弾いた。 以下は「音楽の世界」誌に掲載されたもので 「カンバス・コンサートNo.14 音楽・絵画・舞踊・対話劇―新たなる芸術・神話の模索」 の紹介文章である。 当日の講演者:武藤三千夫氏 (美学 東京芸術大学) それは音楽ではない、また絵画でも舞踏でもない、ましてや哲学ではない何かである。 あえて言えば、それは「引用」であろう。次にこの「私が」、この引用についての引用を試みる。「私の仕事に現われる引用は、武装して不意に飛び出し、のらくら歩いている者からその確信をふんだくる追剥みたいなものである。」:「比類なき髑髏の言葉。まったき無表情を―その眼窩の漆黒を―、かれはこの上なく荒々しい表情と調和させる―剥出しの歯並びと。」:「注釈や翻訳は、様式やミーメーシス(模倣)が自然に対するのと同じように、テキストに対して振舞う。すなわちそれらは、様々に異なる観察の仕方の下での同一現象である。聖なるテキストの樹では、両者は永遠にざわめく木の葉であり、世俗のテキストの樹の場合には、時宜に語って落ちる果実である。(W・ベンヤミン『一方通路1928』より)かくしてムーサイもアポロンもその目を疑うであろう。 主宰者:正岡泰千代のもの (前略) それは声楽曲を除く西洋近代以降の芸術音楽が音の外観、内容ともに実体感が希薄で、純粋と言ってもよいほどに抽象的な在り方をしていることから来るのであろう。しかし又、その音楽の末裔たる現代音楽が周知のとおり内的に疲弊し外的に衰退したのは、自らの抽象性、純粋性の中に安住したからではなかろうか。実際のところ、この現代音楽に本気で憧れる画家や作家がどこにいるか。それなのに一流の作曲家は大方、今だに抽象的構造物作りに勤しみ、残るは過去的な音や俗っぽい響きを立てたり、はたまた自然音を駆使するというように、妄りに感情的ないし感覚的な音作りに手を汚している始末である。 そのような当世にあり、音楽が再び全芸術の確たる位置を取り戻し、皆が憧れざるを得ぬようにする為にはどうしたらよいか。私に妙案がある。音楽が他を愛するという事、即ち、他を受容し抽象する能力を発揮するという事、これに尽きよう。ストラヴィンスキーの言葉「音楽は音楽。音楽は何物の意味しない」というのが大間違いなのである(なんという精神の貧困、そして衰退ぶり化。彼の責任は重いと言わねばならぬ)。 音楽のナルシシズムは思い上がった「悪女」を育てるだけだ(例「小保方晴子」後のロクリアン正岡による)。「女性」の特性は子を産むにあり!それと同様、音楽の最大の特性はその表象能力にあり!本来、音楽は何かについてのものであるべきなのである。そのためには音楽はまず「子」を孕まねばならない。そして、その「子」にあたるものこそ、今、我が家に借り |