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2017年9月22日{金曜日より、クリティークを開始します。

critique

第一回
「物理学者,
一丸節夫氏を巡る数名による議論」


丸節夫(いちまるせつお)という物理学者をご存知だろうか?

1935年生まれだが、なかなか力強さを感じさせる人物で、専門分野では有名な東大名誉教授であり、2015年には
1回チャンドラセカール〈ネットで検索可能〉を授与されている。

 

 下記の著作の自己紹介の部分に次のようにあり、かなり広く知られた人物でもあるようだ。

 「本書の原典は、2000年の暮れにはじめた散文シリーズである。そこでは、「自分の頭で考え、自らの責任で判断し、それを内からなる言葉では話す」をモットーに、科学関係のみならず、今日行き、社会、芸能、音楽、スポーツなどの題材に筆を進めてきた。あれから11年余り、2012年の五月までに六百三十回を、さまざまな分野の知友に、メールや不定期刊行物の形で配信することができた。~」

 

東京雑学大学(最後に触れます)で9回も講義を行い、私はそのうち3回聴講しているが、下記の引用文中にあるとおり、生命に対する余りに物理学的に割り切った見方には当初から腹立たしいものを感じていた。

 

そんなところへ、第9回目の講義があるという。

 

於:西東京市柳沢公民館 2017.10.05木曜日 

科学の小径ー生物圏の生成変転、そしてその未来は

  一丸節夫氏(東京大学名誉教授)

  40億年程前、この地球上に生命が誕生し、デリケートな環境下で〔生物圏〕を創生しました。

   以来、大気・海洋・そして動植物の生成・死滅を巡る二酸化炭素の輪廻が、。生態系のあり様に深くかかわってきました。

   その地球環境下で生物種の大絶滅が現実に起こり始めていると言われます。考えてみましょう。

 

これは一つ纏まった意見と質問をぶつけ、ホームページにも書き出そうと前もって、氏の著作を読んでことに臨んだ。3回目の受講である。

 

 

一丸節夫「エネルギーの科学 宇宙圏から生物圏へ」〈2012年7月初版〉

P207 Ⅲ生命圏の進化と展望 8 生命の進化-地球環境の観点から

 人類を含む多様な生物種族が、岩石・土壌・海洋・大気と互いに織りなし生育する生物圏では、物質とエネルギーが地球規模で循環して、生命の誕生・進化・熟成の過程が維持されてきた。本章では、それら地球環境に関わる諸問題を再考して、その知見を宇宙生物学の新世界を求める太陽系外惑星の探査に援用する。

 

8 生命の進化---地球環境の観点から

 

 ロッキーライフ――大気・海洋・地殻のはたらき

 

 カナダからメキシコ湾まで北米大陸の西側を縦断するのがロッキー山脈である。高くそびえる峰はないが、崩れそうな岩山が多く、山歩きにも難渋することがある。

 形容詞rockyの意味を辞書に問うと、岩石と直結した「岩の多い、岩石から成る、泰然とした、頑固な」さらには「不安定な、ぐらぐらする」などの他に、それから派生した「障害の多い、困難な」まである。

 英語教室ではないが、ついでに名詞lifeの意味を探ってみると、「生命、生存、人生、生き方」など、生命現象の根幹に関わるものがある。

 

生命とは何か?これはとっても奥深い問いかけで、落語『浮世根問』の横丁のご隠居でさえ、うまく切り抜けるのは難しい。仮に――生まれる、呼吸する、生長する、自己を増殖する、(外からの刺激に反応して)変化する、死ぬ―――を生き物に固有の属性としよう。

 すると、「燎原の火」がほのめかす”炎”は生き物か?ということになる。

 だから、生命を真っ当に定義するには、右に述べた属性のみでは不十分である。

 単に生長するだけでなく、学習し、進化する、また、外界の変化に反応するだけでなく、調和・適応するのが、命あるものの使命であろう。

 開発と称して環境破壊を専横にし、自然との調和をおろそかにしているわれら人類は、命あるものの資格があるかどうか、まことにジクジたるものがある〈下線、LM〉。

 

地球上に生命がどのように誕生したかを考える時〈ロッキーライフ〉がとくに深い意味を持つ。クッキングにたとえると、生き物を造るには、適量の炭素(C)、水素(H)、窒素(N)、酸素(O)、燐(P)、硫黄(S)などを水に混ぜ、太陽の光や化学変化のエネルギーを使い、生命体に必要な分子どもに調理するレシピがあればよい。

 なかでも炭素は、その特徴的な分子構造によりレシピの主役となり、二酸化炭素(CO2)、一酸化炭素(COP)、メタン(CH4)など一炭素分子に始まり、十数個以上の炭素原子の連鎖構造からなる複合分子----生態活力の源である等質〈炭水化物)、生体膜を構成する脂質(脂肪)、さらにはタンパク質の主要成分となるアミノ酸類―――を造成する。

 このような複合分子群が生成されると、それらをさらに多数鎖状に結びつけ、生命体を構成するのに必要なDNAなど重合体(ポリマー)が形成される。そして、エネルギー変換をつかさどる新陳代謝機能と、DNA分子などを複製する自己再生機能、さらにそれらを外界から隔離する膜組織の形成により、生命が誕生する。

このように話すと、生命はいともたやすく地球上に発生したかに思える。

しかし事実はそれに反し、生命の誕生は途方もなく障害に満ちた、”ロッキー”なプロセスであった。

 

 振り返ってみると、われわれの地球はほぼ46億年前に形成されたが、初期の5億年ほどは、その表面が常に小惑星の爆撃に遭い、生命など発生できる状況ではなかった。

 しかし、その後数億年の間に、太陽エネルギーなどの助けをかりて、生命の熟成に関わる光合成などの化学過程が頻繁に起こるようになったと考えられる。

 

 生命創成のドラマには、空気(大気)、水(海洋)、それに加えて岩石〈地殻)が出演するといわれる。そして、その中で海と大気が主役、岩石はほんの脇役と見られていた。

 が、最近の研究によると、生命誕生劇で、岩石は単なる脇役ではなく、海や大気に劣らぬ肝要な役割を果たしていたことがわかってきた。

まさにロッキーライフだ。

 まず、岩石は、水や空気にはふくまれていない、燐や硫黄など特殊な元素の供給元になる。これらは延期として海水中に微量ながら溶け込む。

 また、岩石はその多孔質の特長を活かして、複合分子類やポリマー類が、永い永い間にわたり苦難の進化を遂げ、ついに生命の誕生に至るのを助ける、いわば、ゆりかごの役割を果たす。

 

 一つの例として、炭水化物が二酸化炭素を取り込み、酸素を放出し、炭素の数がより多い多糖質に進む、光合成の過程を考えよう。

 海水中に溶け込んだ二酸化炭素が、やはり海水中を浮遊する炭水化物と遭遇合体する確立はきわめて小さく、このような光合成が起こるには無限とも思える永い時間がかかる。このことを下世話には「盲亀の浮木、優雲華の華」という。

 もともと生命の誕生は億年のスケールで考える現象であるから、盲亀の浮木は覚悟の上である。ただ問題は、糖質が海中を浮遊する間、二酸化炭素との光合成に成功する前に、太陽の放射する紫外線でばらばらに分解され、むしろ低級な化合物に退化することだ。

 ここで岩石の割れ目や細孔が炭水化物ら複合分子に隠れ家を提供すると考えるのはどうだろう。今の言葉でいうと、小惑星や紫外線の爆撃を避けるシェルターだ。ただ、紫外線を遮ると、当然太陽光そのものも直接には届かないので、ここは化学エネルギーによる合成に頼らねばならぬ。

 

 岩のゆりかごで生命が数億年にわたるこのような苦闘の末に誕生を遂げたと考えると、生きとし生けるものが格別いとおしくなる。

 私たちの地球は生命誕生劇の主役を務める大気、海、岩石すべてを備えた、宇宙でも稀有の天体である。十数億年を超える永きにわたり、やっとのこと保たれてきたこの不安定な自然環境を、人間はたかが数百年の浅知恵で破壊し、地上の生命を死滅に導こうとしている。環境破壊のたたり、それはほんとうに恐ろしい。

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私は科学関係の専門家A(科学史家:森幸也/さちや),B両氏にそれぞれ次のような文章を送った。

 

1)A氏へ

 

すでに読んでるかもしれないが「エネルギーの科学」は東京大学出版会からでているもので、全体は300ページ近いものですが、通読すらしてないが、尻尾を捕まえるには一番都合の良いところを添付させてもらいます。

 

 「尻尾だ」なんて、ほかの方々が感じるかどうか分かりませんが、

 素人の私にすれば「生命なんてこんなものじゃないでしょ」と言ってやりたい。

 

 「レシピ?」とかなんとか、「ロッキー」とかなんとかいってところで、、、

 これでは生命とか具体的生物とかも、単なる物質や物体の延長でしかない。

 そこには、主体も感覚も意識もない、単なる客体物が著者の意識によって抽出されているようです。

もちろん、著者自身、意図的にやっているに違いなく、おそらく「主体・感覚・意識」等々は体の属性〈ハードに乗るソフトウェア〉ぐらいで、取り扱いにくいので言及せず、という当たりではないか?

 

 この人、科学界ではそれほど、というか、かなりえらい人なんですか?

添付文章に、LMは日本人には珍しいほどの傲慢さを覚えるが、その分野の人からすれば、良く見かける常套的文章の一つぐらいなものなのか?

 

 A氏の応答

刺激的な考察テーマを下さり、ありがとうございます。

 

 一丸節夫という先生を、私は知りませんでした。

 ロクリアン正岡さんからのメール引用文で判断する限り、東大の教授にありがちな、傲慢不遜なタイプの人物のように感じます。

 

 添付ファイルの引用からは、物理学者の抱きがちな生命観が読み取れます。

 生命現象を、最終的には物理化学的なレベルまで還元して理解可能である、という「還元主義」、かつ「唯物論」であろうかと思います。

 確かに、生物の「創発性」の次元に対する目配りが、すっぽり抜け落ちています。

 ただし、このような生命観は、科学者の文章ではよく見かけるものです。

 いちいち相手にしていたら大変でしょう。

 

 このあたりの問題は、生物機械論の偏狭さや、人工知能の限界の問題ともつながっている、と私は展望しています。

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2)B氏へ

 Bさんは添付文章の主をご存知?

彼がもしその世界のいささかなりとも著名人であるのなら、ご存知どころか、親しいご親友なのかもしれませんね。

添付文章の最後にあるとおり、顔の広い方でもありますゆえ。

 

 まあ、しかし、親しいも親しくも関係ないという前提で行かせて頂きましょう。枝葉末節に木を使いすぎては詰まりませんから(笑)。

 

 私が下線を引いたところは、まったく笑わせる。

じつにチャッカリしている。

 

 それにしてもアッケラカンと、地球大気を始め環境を変化させる一大要因として、生命現象を物理現象の一つと決め付けていろいろと収支計算しているのは、「やってくれるじゃないの、お兄ちゃん」です。

いかにも物理スペシャリスト、専門家らしくて良いが、妙に文学的知識も持っていて得意げに引用している。

 

 この男、丸さんは幅を利かせているだけに深刻そのものです。

 

 今度の木曜日には雑学で講義するので、いろいろ言ってやろうと思っています。

 

 ポイントは、客体として、あらゆる生命(体)をつまるところ物理現象〈物質的存在、でもよい)だ、としている。

 自分も人間も生命(体)だ、としている。

 であるにもかかわらず、「命あるものの使命」などを仲介概念として、「開発と称して環境破壊を専横にして、自然との調和をおろそかにしているわれら人類は、命あるものの資格があるかどうか、まことにジクジたるものがある。」という概念につなげている。

 土台かつ所詮、丸さんは自分自身を筆頭に、人間(も生命だが)は別格だと言わんばかりにその意識・精神・知性・価値観・知識・経験等々を駆使して(おきながら)、「生命」と言う対象からそれら主体・主観・自由といった側面の各要素を奪い取っているのではないでしょうか(どうやら、丸さんに限らず人間という人間は、人間一人一人は、相手から意識を奪うことで自分の意識を濃くしようとする要領があるようだ!いかが!!意識の奪い合い⇒主体の殺し合い)。

 早い話、生物と言う生物には魂〈意識・・・・・)はあり、ただそれが眠っているか開いているか、どのくらい薄いか小さいか、どのくらい濃くて大きいかの違い(質の違いに就いては置いておきます)があるだけでしょう。

 彼の生命観は死体解剖学者のそれ、従って、正しい意味での”生命概念”は、彼にはない。

だが、あざといことに、彼はそのことをうすうす承知で、だから文学的な引用を施し粉飾を凝らす。

 

3)が、そんなもので騙される人だけではないでしょう。私程度でも騙されはしないぐらいですから。

 彼が、各物理量、物理的諸関係に徹する純粋志向で生命圏の過去から未来まで語っているのは、解に近いところを算出するには都合の良いやり方なのでしょう。

 だが、ぶっ通しで聞こえてくるのは、「生きているも死んでいるも単なる現象よ」との声です。

 生死も、脳波の量に置き換えて見分けられてしまう、というわけです。

 

 彼にとって生命とは、死の状態と同じではないにしても、死+@というところらしい。

 生命の水平線より上に顔を出したものが生き物=生命体、というわけだ。

 「生命は、物理現象の特異なあり方に過ぎない」という気持ちなのでしょう。もっとも、そう問われれば、彼の自我が許さないから、言辞を凝らすなり文学的粉飾を凝らすなり、するりと身をかわそうとはなさるだろうが。

 

4)彼が何かの宗教の信者かどうか、ましてやどの宗教の信者かなど分かりません。

  しかし、一神教の信者でも、頑迷な、あるいは弱者に徹した神頼みにちかい信仰を別にしたらどうでしょう。

  知的に一つ神を前提とする人(いわゆる理神論者)は、いとも簡単に無神的立場にも立てるのではないでしょうか。

  根源的な有〈存在〉を想定する人が、同時に科学者、とりわけ優秀な物理学者でもあれば、万物を支える存在基盤たる根源有を頭から外したところで生きている分にはビクともしないでしょう。

 

 5)ただし彼ら(丸さん、ほか物理学者に限らず大勢の方々)から失われる、いや、土台かつ所詮持ちようのないものは、”祝福された生命観”というものです。

   この世に於ける生命体を”物質のあるあり方”とみる立場は、物質が生命を失ったのを見れば、その生命への認知の手づるを失い、「これは死んだ」と思うだけでしょう。

   しかし、「根源的な有がある水準以上に濃いあり方で物質に宿った場合に生命体が誕生したということになる」という直観はいかがでしょうか?

   実は、私の場合にはこれが非常に強いのです。

   根源的有がなければ、この世に於ける生命誕生も万物も万象もなければビック・バンもない。おっとっと、意識も魂も精神もちろんない。意識と物なんて、主客分裂の両サイドですが、

   有本来のあり方は主客分裂以前かと存じます。

   (ついでに、といったら失礼でもありますが、無は無であり、有の欠如に過ぎない。有があるからこそその欠如としての無が感じ取られるのであり、

    無から有が生じるなんてことは、絶対にありえない。

    ユダヤやキリスト教の一つ神などは、有を擬人化した、御伽噺に過ぎないでしょう。子ども用の物語の登場人物は動物の姿をしているが

   大人用の一神物語は一人間の姿をしている、、、、、なぜって?、、、それはそうしないと波及力がないからでしょう。 

  

  6)丸さん批判のつもりが個人攻撃に徹すること能わず、大きな話に成ってしまいました。

    やはり、私は(たいした作曲家ではないが)タイプとしてはバッハでもモーツァルトでも、ましてや他の大作曲家でもなく、ベートーヴェンなのだな、と改めて感じつつこの文章を書きつづってまいりました。

 

    バッハはすごいが、彼は人と神との媒介者であっても、彼個人の声は聞こえてきません。大司祭〈教皇でも良いけれど)という職業人としての声しか聞こえてきません。もちろん、フランシスコ教皇のようなゲテモノとは違います。

    ベートーヴェンは、彼の地声が聞こえてくる。その地声が、各々の人々の中にある孤独性ではなく、集団性に直接に訴えてくる。集団力なくして”第九”も第九現象もありえません。

    モーツアルトは、天の声を我々にもたらす聖霊のはたらきそのものです。

 

  7) 死ぬ時にどの曲を聴くべきか? 副題-B氏の葬儀場でのBGMの選び方

    「死んでも死に切れない、出来れば意識を戻したい、遣り残した仕事が気になり棺桶から出たい」のなら、ヒエイさんもぜひベートーヴェンを鳴らしてもらいなさい!〈大笑〉

    

    でも「そこまでの執着はないよ。あの世からのお迎えに虚心に身を任せたい」のなら、モーツァルトをどうぞ!

    モーツァルトの天からの響きは、聖書の神のように人工的で厳しいものではなく、全身全霊をそのまんま任せられる未来からやって来て未来へと運んでくれる乗り物のようです。

    

    武満徹は死ぬ時にはバッハのマタイ受難曲をと言っていたそうだが、彼の自己保身的偏りがよく現れていると思います。心の甲冑を身に纏ったままで棺おけに入る奴ではないかな。

    彼とバッハの類似点は、パターン化から感じられる窮屈さ、でしょう。

    でも、いいんですよ、「ワシは次に生まれてくる時もBでありたい」というのなら、

    だったらマタイ受難曲と行きましょう。魂までリセットされずに生まれ変われるかも(笑)?!?!?!?

 

   丸さんのせいで、なんと7)番のような不躾なことまで一気に述べさせられてしまいました。

   

   ということは、彼は一つの典型にまで至っている、と言うことかと思います。

   世間的には強い人、強い俗人(大俗物)なのでしょう。

   彼は文学に通じながらも繊細さが大いに欠如しているために、漫画、いや、純文学の主人公にもなれるかもしれないが(ただ、尻尾丸出しなので、心理描写や分析を得意とする作家は彼をモデルとしたがらないかも)、

   ご自身は文学者や芸術家には成り得ない、というのが私の見立てです。

 

B氏からの応答

ロクリアンさん

あなたは5次元人間なのでしょうか。丸さんは仲間です。彼はロッキー山中の

文化地アスペンに部屋を持ち、夏にはそこに行き、アスペン〇〇研究会に出席し

た文化人です。意識下にあって気が付かない彼の臭いをロクリアンさんは5次元

の嗅覚で探り当てていると感じました。その通りです。

 音楽に素人の私には、ベートーヴェンは泥臭さを感じます。足が地から生えているようです

し。モーツァルトは天から降りてきたのかもしれません。三途の川を渡る時には渡らせて

ほしいと思います。ロクリアン氏の声明がいいかなとも思ってます。

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さて、
講義当日は前記の著作の私が引用した部分から始まるP240までの部分、あるいは、2017年出版(文芸社)「科学の小径」宇宙・生物・核融合・信濃木崎夏期大学 の「Ⅱ 生命圏の生成変転-その未来は」という前著さながらのp98-150から多く引用された数ページのレジメが配られ、氏みずから編集したパワーポイントを自身、操作しながらの大変熱のこもったものであった。

しかも、希望者には寄付をするといって「科学の小径」50冊持って来られる力の入れようである。件の部分を読めば、講義の内容はずれることなく半追体験いただけよう。

 

講義後の発言者は私だけで、その内容は次のようなものであった。多少、膨らませて記載させて頂くと-

 

生命や生態系を主題としながら、悠久の過去から今世紀末まで他の地球上の現象と一緒に物理(化学)現象として扱われ、大変分かりやすく有益なものでありました。その物理学者としての徹底振りには先生の専門家としての矜持と迫力がじかに感じられました。

そういう意志、知性、感性、意識、情熱、努力が一生命体であられる先生からじか伝わって来た、ということは、先生の「生命観」と完全に矛盾する出来事だと思われます。

「一寸の虫にも五分の魂」と申します。

そういうところを無視しきって己の意志を貫徹された先生のお姿は、英雄的であり、しかしまた悲劇的でもあります。

 

先生の内なる生命観をお聞きしたいがいかがですか?

(一丸:「答えません」)

そうでしょう、答えられないのです。

あれほどに物理学的見方をされる先生のことですから、ご自身、あるいは人間一般について意志や知性のあることは十分に実感し自覚されていようとも、魂というものは認めがたいのではと推察されます。なぜなら、生については先生のように物理学的に取り扱うことが出来ても“死”については物理学的に扱うことは不可能であり、従って“魂”(とか“霊”)など、あっては成らない空語と言うことになるからです。素地の広い先生は文学も嗜まれ、それからの引用も多いが、だからといって先生の強い物理学的思いや説明力は微動だもしない筈だ。

そして、それは内向してご自身の死後を真っ黒に塗りつぶしてはいまいか?

私は、先生の棺桶に入る直前のお気持ち安らかなること、そしてその後のご冥福を祈らずにはおられません。なお、一丸氏のこと、今回のことは、近々、芸術家ロクリアン正岡のホームページに書き出します。

 

会が引けたあと、先生に一言「先生は立派です」と申し上げておいた。

専門馬鹿といわれようが、専門に徹する-それも学問の分野で、というのは自己の特殊化覚悟でなきゃ出来ないことであり、己の生命を大切にしがちな女脳*には向かない、きわめて男性的なあり方だ、と私は思う。

*性差の観点から言っているのであり、個々の女性の脳については、女脳という観点だけから説明しきれるものではない。男女、あるいは性同一障害者等々であろうが、その脳について性的視点からもれる部分は無限に大きいと、私は思う。

 

知に抵抗する個性という偉大性!

 

この先については、この続きとして、あるいは別の文脈の中で触れないわけには行かない。

なぜなら、これは私の使命だと思われるからである。

もっとも、こういう事柄については作曲という手段で音化してきたし、これからも音化もして行こうと思っているのだが。

私の音楽を受容された人々の中で、それを感じ取っておられる方があるとすれば、あなたは最高の鑑賞者だ、と思う。

                                               2017.10.06 LM


東京雑学大学について、
  我が西東京市が誇る、おそらくは日本で最高の雑学組織。
 発足以来20年以上、毎週の講義は1100回を超えている。

 何よりも、講義は諸分野に渡りそれぞれの専門家が担当し、著名人も多い。
 
 私は12年r前から参加し、ほぼ毎回、意見開陳や質問をさせて頂いている。
 内容が本格的なせいか、聴講生は高齢男性が主であるが、
 私としては、もっと若い方々、あるいは芸術畑の方々にも聴講をお勧めしたい。

 今後ますますの社会貢献が期待される機関です。


 
詳細については東京雑学大学のホームページをご覧ください!


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頂いたコメント

C氏より
ロクリアン正岡様   ご無沙汰しております。このたびは、メールをいただき、ありがとうございました。私も、自然科学、特に生命科学についてですが、情報化の問題に危惧を抱いています。今日の生命情報は、ほとんどがドライデータで、その分野の研究室を訪ねてみても、パソコンや高速コンピュータが置かれているだけで、何をしているところか見当も尽きません。昔は、血の臭い、せめて薬品の臭いぐらいはあったものです。今は、医療データを分析したり、たんぱく質の型をコンピュータにかけて、それに適合する医薬品の開発をしたりする研究が多くなっています。言ってみれば、医学ではなく、情報工学なんです。東大の場合、医学系の研究機関の研究者の多くが、医療工学や情報工学の研究者で占められています。医工連携の中で、医学研究からにおいというものがなくなってしまっています。においがなくなるのですから、人間が生まれたり、死んだりする痛みについても同様です。大切な人間の感情や価値観を、いくら高速コンピュータで分析し、数値化し画像にしても所詮虚しいものです。よく、パソコンばかり見て、患者を診ない医者が増えたということが言われます。それは、医学教育にも当てはまります。二進法の世界を乗り越える、言葉や音楽の世界を、もっと若い世代に伝えていきたいものです。今後ともよろしくお願いいたします。2017.10.09 c


私LMよりの返答

ああいう布置構成〈編集〉のホームページを出した者として、今回いただいたメールは非常に説得力があります。

早速、C様*よりのコメントとして末尾に加えさせて頂きたい。

実は、もう4年ほど前になりますが、風邪を引いた時に見てもらった、近所のちょっとした病院の30代ぐらいの内科医が、「あなたの現実の病状、

個別的病状に直接触れる気持ちはなく、あくまでデータを相手に処理するだけ」ということを言われ、変なことを言うなぁと思い、柄にもなく大きな

声で説教気味にがなり立ててやったことがありましたが、現在の一般的な流儀に、その医者は無感覚、無抵抗に乗っていただけ、とも言えますね。

一丸さんから感じられた、あるいは私の方から彼に投影したくなる悲劇感の全くないその医者、いや、医療関係者一般、という訳でしょうか?

話は広がりますが、

では、山中伸弥氏はどうか?

わたしは、前々からスポーツマン的ファイトある優秀な研究者という印象を受けております。もちろん、正義感もある方でしょう。

しかし、人間そのものの感じが、いかにも機能的で、とりたてて偉大な人物というわけでもなさそうだ。

世間では「救世主」といった感情的評価もあるようですが、「シンドラーのリスト」や杉原千畝も連想されます。

実は、昨日、たまたま、ルカ福音書の16〈不正な管理人、のたとえ〉を読みまして、理解、解釈するのにかなり苦労しましたが、

シンドラーや山中さんといえども、このイエスの目にかかったら・・・・と痛感した次第です(もちろん、私は信者ではありません。芸術活動の自由のためにも、死ぬまでフリーのままでいます)。

「正義」なんて、今の相対主義的価値観がひしめく時代に死語化しつつありますが、

 やはり、正義からは外れたくないものです。

 積極的正義はともかく、消極的正義は守って行きたい。

 たとえば肉体の持つホメオスタシス機能のような、目立たないもの。

 あるいは差異を浮き立たせる静かな目のようなもの、つまりそれ自身は目立たないもの。簡単に言ってしまえば隠れた力とか、客観的姿勢とかですかね?

“恥じらい”に大いに物を言わせようとして(笑)。

「客観性」はあなた様の講義の時に感じ取ったものです。

 *について:もちろん、実名は出して、と言うことでしたら喜んで出させて頂きますが?



LMよりの追伸:

ご参考のためにその、ルカ(新共同訳/本聖書教会)
「不正な管理人」

16
1イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけには行かない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った、『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるであろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召使も二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることは出来ない。

C氏からの第二コメント

ロクリアン正岡様   本日、さっそく、メール2通ありがとうございました。私の意見は、実名で取り上げていただいて結構です。そんなに影響力はありませんが、どこに行っても同じように喋っている内容です。それに、正岡様とも考えが共通する部分があるように思います。ところで、医療事故が多発していますが、それを引き起こすのも、またそれを防ぐのも人間の側の問題であると考えています。私が、持病の治療である病院にかかっていた時に、担当医がうっかり診療カードをパソコンに通さず、違った薬を出そうとしました。私自身が気付いて事なきを得ましたが、同じような年齢で、誕生日もそして顔立ちも近い患者がいたようです。もちろん、その医者には注意をしましたが、その医者の手順のミスであるので、大きな問題にはしませんでした。このような人為的なミスは、原子力をはじめ、あらゆる技術分野で発生する可能性があります。ミスを防止するのも、人間です。医療行為で言えば、医者がしっかりと患者と向き合うことです。似たような問題が、情報化が進む中で起きています。情報化社会における、人間のあり方を考えていきたいものです。   

多田統一〈東京雑学大学教授〉


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