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 作曲家、ロクリアン正岡
(Locrian MASAOKA)
のホームページにようこそ
ご意見・ご感想はこちらへ
locrian@saturn.dti.ne.jp
 2024年 謹賀新年
 正直なところ本日は二日の未明です。
元旦の午後、日本海側で激震がありました。
首都圏でなかったのも(原因としてではなく)結果としては
たまたまのことでしかありません。
全く自然は恐ろしいものであります。
そんな中、近代そして現代と、文明を営々と築いてきた人類の方も
大変なものだと思います。
(もちろんそれも”脳”の働きといえば、自然というものに還元されるが
ここでは話の外に置く)。
だが、その恐ろしさはいわゆる自然には限りません。
早い話、人の体調や病から死へまでがそうだし、人対人、あるいは
人と物事、物事と物事、さらに情報同士の出会いの偶然性もそうです。
また、意識に先立つ脳(無意識とも)の働きからして、意識、意志、精神
の方がそれに制御されていることを思えば、”偶然”の危険性にいつもさら
されている、と言えないでしょうか。

 そういった、偶然性の恐ろしさ*の象徴としての自然、
その重い石を相手どろうとしたのが 
弦楽四重奏曲第5番「いのしし人間の諸相」!

 これについては下記のリンクやその下のコンサートデータにある
ある通りです。
  なお、これは日本現代音楽協会のウェブサイトのコンサート・レポート
(2023.フォーラム・コンサート第一夜のもの)にも掲載されています。
 


3月にはユーチューブでも公開させていただきます。
是非、お試しください。
*「恐ろしさ」とはいわゆる「恐ろしさ」ばかりではなく「大いなる優しさ」、
「大いなる素晴らしさ」を含めてもあります。
 
 今年、そして今後、良い偶然との出会いに恵まれますよう、
心からお祈り申し上げます。
  2024年〔令和六年)正月に   作曲家 ロクリアン正岡(LM)


弦楽四重奏曲第5番「いのしし人間の諸相」の思想的背景 .pdf へのリンク




 


ロクリアン正岡:弦楽四重奏曲第5番「いのしし人間の諸相」

1130日(火) フォーラム・コンサート第一夜 

於:東京オペラシティ リサイタルホール(新宿/初台)

 

現代音楽という今は人気がイマイチですが、

芸術の歴史上重要な分野であり、様々な作曲家の力作が並ぶプログラムです。 

ここでは私の作品への思いをつづらせていただきます。

 

タイトルは弦楽四重奏曲第5番(弦楽四重奏曲はクラシック音楽のエッセンスです)

問題は副題で「いのしし人間の諸相」というものですが-

 

猪のぬいぐるみは哺乳類の中で一番少ないそうですが、確かに造形的に単純すぎて魅力がない。が、その代わりに原始性がある。なぜか本質的で重厚、まるで「物そのもの」といった出で立ち。

そしてなんといってもエネルギッシュで泥臭いたくましさが人間を含めた哺乳類を代表させるのにふさわしい。

ところが、人間は自我が猛烈に発達し、いらん戦争で共食いを繰り返し、地球の自然や気象まで狂わせている始末です。余計な属性があり過ぎるのではないか?

そこで、私は、我々人間もその内側の地下茎で他の哺乳類に繋がっている点に着目し、作曲を続けながら内面深く猪に迫っていったのです。

 

その結果、現代音楽にはあり得ないほどの真に弦楽四重奏曲らしい充実感あふれる作品が

出来上がり、その様を追体験していただきたく存じます。

 

第一楽章「猪の喜怒哀楽」

第二楽章「五穀豊穣の踊りと祈り」

第三楽章「(いのししの)横綱土俵入り」

第四楽章「猪のアイデンティティー」

 どうかこの機会をご利用ください。

 202310月吉日 

以下に、現音のウェブサイトを掲げます。
詳しくは11月30日の分をご覧ください。
 

 日本現代音楽協会(現音)Japan Society for Contemporary Music (JSCM)


 

弦楽四重奏曲第3番
「異形・日本・かぐや姫」
の作曲者として悟ったこと

医療の主役が患者であるのと同じように音楽の主役は聴き手にある。外音(がいおん/音波)の有無を実現するのは作曲者や演奏者であるがそれに刺激されて聴き手はどれほどの量の内音(ないおん)を催すことであろう。この楽曲においては外音を全音音階の6音に設定、内音は一応“いろいろな全音階”ということになる。音楽学は楽譜に書かれた音を大切にするので、内音など、楽曲は愚かその音楽の対象にすらされ難い趣がある。だが、音楽は作曲者から聴き手までの主観をおいてどこにもありはしない。

そもそも、各自の“聴”こそが唯一の真の楽器、主観楽器なのだ。どのような演奏音を放射されても、それがそのまま“聴”なのではない。同じ会場にいても、音源に向かっていても、個々の聴体験は微妙に違う。また、そもそも”聞こえる“ということが人智を絶することなのだ。「耳が」「脳が」と物質や生体の方へ話を持っていっても無益なこと。そもそもそういう耳や脳がどうして働いているのかは、それを対象的にいくら遡っても分かり切れるものではない(耳や脳で説明しても、それは問題回避というものだ。)

早い話、外音が一切なくても、“聴”の現実はある。それが無音であっても、時間、生の実感というものがある。それは如何にかそけきものではあれ、無と有のもつれ合う生成活動なのだ。そして、それをこうして意識できるということは、生成活動へと落とし込まれない超然とした部分が誰にも備わっているからに違いない。それが存在そのものとしての在り方であり、生あるものとしては「息を詰める」ことで実感できる境地である。

演奏者においても同じ状況にあると言える。

この楽曲にあってはすべての要素、すなわち音の有無が“全体”に位置付けられている。全体(一つの楽曲)形成にかかわっている。そしてその全体は、一個のものとしてより大きな全体(この楽曲の場合には「竹取物語」ともとれる)に触れている。そしてさらにそれはちょうど文学で、文字が単語に、単語が文章に、文章が一章に、一章が小説に、そして小説全体がより大きな全体に含まれているのに等しい。

ところでこの曲の演奏は難しい。それは全音音階の6音に限られているため初めての聴き手にも気づかれやすく音高のずれが許されない点と、19分の一樹を見事に形成しなければならないという点とである。

そこで、演奏者の4人に初めから伝えておいたことがある。

「いま、曲自体の形を見よう見ようと努力しなくてもいずれそれは見えてくる。というのは、『竹取物語』のウキペディアやスコアを眺め覚えつつ個人練習から合同練習を繰り返してゆけば、音ではない実体が生長繁茂開花結実してゆき、それが音楽の表象面に自ずから映るようになるからだ!」と。

自然界では物体を伴った文字通りの生命活動が繰り広げられ、音楽においては物体を伴わない生命活動が繰り広げられる。だが、生命活動というものは死(無化)に抗する形でしかありえないものであろう。ということはこの世は生死をめぐる動的運動の渦中にあるということになり、我々は死んでもそれでストップということにはなりえないであろう。

それにしても不思議なのは我々5人、本番に向けていよいよかぐや姫状態入って行け、多くの聴き手に及んだらしいこと。それは難曲への必至の挑戦もさることながら、六人の男性を拒んだかぐや姫の(みそぎ)に従って、片一方の全音音階六音を拒み通し、それを良しとして作曲を貫徹した結果もたらされた恩恵としか思えない。作曲者の計画や見通しではなく、無意識の裡に差し込んだ一瞬の伝令に私は従ったまでであった。2013年のことである。

 

 ―猛練習を経て熱演されたカルテット・フローライトの全員と、ヴィオラを担当された加藤星南氏に心からの拍手を送りつつ

                      作曲家 ロクリアン正岡

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ロクリアン正岡作、弦楽四重奏曲「異形・日本・かぐや姫」を演奏して

今回フォーラム・コンサートに初めて参加させていただきました。

同じ時代を生きている音楽を演奏したのは初めてで、実際に作曲家の方の考え方や思いを受け取り音楽を創り上げていくことに多くの学びを得ることができました。

11音がかぐや姫の物語を紡いでいく、音の意味についても様々な視点から勉強させていただきました。

この学びをこれからの演奏へ生かしていきたいと思います。

この度は、このような機会を与えてくださり本当に感謝しております。

小野口紗(チェロ)

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今回初めて現代曲の弦楽四重奏を演奏させていただきました。作曲家のロクリアン正岡さんは私たちの演奏を何度も見てくださり、そこで演奏解釈のアドバイスを多くいただきましたが、毎回音楽性の深さと世界観に驚かされるばかりでした。また、表現の幅や、音楽以外との結び付きについても多くの発見があり楽しかったです。このような機会で演奏する事ができ、本当に良かったです。ありがとうございました。

矢澤結希子(第一バイオリン




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特報

来たる(2022年)11月24日18時半より、
新宿/の初台の
東京オペラシティリサイタルホールにて、
私の最高作がカルテット・フローライトによって再演されます。
単一楽章で20分近い密度の高い時間を存分にお楽しみください!


ロクリアン正岡 

弦楽四重奏曲第番3番「異形・日本・かぐや姫」

作曲2013/再演

Locrian MASAOKA

String quartet No.3(スペースが足りない時には SQ.3

HeteromorphismJapanThe bamboo princess”

2022. replay

初演の時にも書いたように、かぐや姫が地球の“六人”の男の結婚要望を拒んだ如くに一オクターブ半音階の一つ置きの音を捨て、残る6音のみによる全音音階(WTS)に使用音を限ったというのが外形上の特徴である。視覚には主観的輪郭(心理学用語)といって、無いものがあるように見える現象があるとか。例えば朝日新聞のロゴマークではASAの下に円弧が見えるように。これは錯覚でありながら補正機能ともいえるもので、日常生活で安定した現実空間を想定するのに寄与しているといえる。本楽曲はその聴覚版と言ってよいものだ。音楽においてすっかり世の中に定着した長音階なるもの。よほどの音楽音痴でない限り我々現代人はすっかり全音階(DS)に調律されている。演奏者が発射する全音音階の音達が撥のように人の聴覚を打つとき、自ずと全音階の音が鳴り12個のいずれかの調性感が備わるのである。鑑賞とは何だろう?受容側の無意識の層には無尽蔵の想像力や創造性が存在することが本上演で確かめ得るのでは?医療に於いても主役は患者の方ではないか?されば、作曲行為とは演奏行為を借りつつ受容者のそのような潜在能力を引き出す仕掛け作りに過ぎなかろう。ことは音楽や医療にとどまらない。あらゆる領域で受容者の豊穣な内的世界に洞察の目が向き、それを通して日本仏教でいう“他力”が顕在化してゆく。これからはそうあらねばならない時代だと、私は思う。


以上はプログラムの文章ですが、以下補論です。

 1)一オクターブ12音あるのにかぐや姫に倣っ6っつの男、いや音を振り捨てようと決めてひたすら、音楽的な限りで「かぐや姫」や「竹取物語」らしさを表現しようとしたらそうなった。作曲者自ら、これは実に不思議な事態だと思う。
(全音音階主義に徹しなかったら、こう上手くはいきっこないし大変な労苦を抱え込むことになっただろうと思う。)
出来れば皆さんにも考えていただきたい。

 2)もうかなり前からだが、作品をもっと身近に感じてほしいということからか、観客参加型の美術展が増えてきている。それが人々に芸術作品も所詮物質に過ぎないと言う無意識裡の印象を与え、はてはあの西洋の美術館における環境活動家の暴挙の促しとなっているのではないか?
彼らは芸術作品というものは人間の命の命/イノチのイノチというであるということも分からないのか?
 観客参加型、視聴者参加型などなどの本質は「人間平等」という理念に則っている部分もあるかと思うが、それを芸術作品、ひいては芸術という物の価値を引き下げることによってでも実現しようとする向きがないとは言い切れまい。
 
 3)一方、もうかなり前から、展覧会における名画の展示場が暗すぎて十分に鑑賞できない、という事態も発生している。
 2)と3)の共通点は”物質としての作品”を前提にしているところである両者の闘い、あるいは葛藤は生々しく、なんと次元の低いことであろうか!
 








2022年1月10日にマウス描画で描いたのを契機に
ギャラリーを開設しました。
今後数を増やしてまいりますので
開いてみてください。



 

謹賀新年 西暦2022年冒頭に

 人間から人間へ-

 誰であれ、人間というものが如何に大きなものによって支えられているか、いや、それ以前に成り立っているか? 

 それはいくら皮膚の中を対象的に観察、調査、検証しても解るものではないと私は考えます。

目の前の肉の塊の中に“人間”の全てが収まっているなんて、「人間軽視にもほどがある」というものです。そしてそれは存在軽視、いや、「“存在”知らず(存在不認知)」から来ているものに違いありません。

 

私が作曲を続けるとき、五線紙に書きつけるのは現実音でありますが、何かの影に過ぎません。その何かとは鑑賞者における大いなるものとの接触感覚であります。次から次へと耳に飛び込んでくる音達により偉大なるものの手に触れられている幸福感が得られれば良いのですが。

私が音の有無の諸関係に意を凝らす所以であります。

 

皆さん!音楽って本当に素晴らしいものですね!

           作曲家ロクリアン正岡



以下、直近の出来事のご報告です。
 
写真は下記公演直後、ロビーの外にて。
向かって左から国立天文台名誉教授の日江井榮二郎氏、ピッコロ/フルートの
大岡三佐子氏、ロクリアン正岡、チューバの本橋隼人氏、東海学院大学
常勤専任講師の齋藤代彦氏

以下は12月29日より主催者日本現代音楽協会のウェブサイトに掲載中。
ロクリアン正岡のコンサートレポート

 フォーラムコンサート第二夜の全楽曲を何度も鑑賞することで息づく我が生死の被膜

 録画映像の配信継続のおかげで我が内なる芸術誕生や哲学衝動の仕掛けがより見えてきた。協会に深謝!

「いつまでもこの世で幸せに生きてやる!」という燃え盛るような生き物衝動。それが一番強いのにいずれ死ぬように出来ているし、その認識を堅持している矛盾体、それが我々人間だろう。

ミイラ?生体の冷凍保存?無駄な細工はやめた方が良い、と私は思う。

火葬され灰になったらそれで自分は消滅してしまう?そう簡単に決めつけるものじゃないと、私は思う。

唯脳論をはじめとする唯物論はこの世のことしか分かろうとしないが、人々はそれを安易に許す。それはあまりに真面目すぎないだろうか?と私は思う。

以上のすべては、人々の持つ、自分がこの世の内側にいるという強力至極な実感に基づくものだ。

 

だが、私の場合その実感はもともと薄弱であり別の領域との接触感があったが、今回、半ば強制的に出品楽曲鑑賞を繰り返すことで、二領域の境目は一層の活性化を見ている。

私はほかの八曲を何度も聴いた。なぜか?聴き手にとって現代音楽はとかく初め面白くてそのうち飽きてくることの方が多い。出会いがしらの新鮮さが数秒ごとに薄れて行くのは物の道理で、ならばそれに代わる音楽生命の活性化材料(賦活剤)の投入/参加が求められるところなのに、それが続かないのだ。

だが、それは(初演ならぬ)初鑑賞的態度に終始するからではないか?

曲により第一印象の良し悪しの落差は小さくなかったが、私は公平無私を決め込みどの曲も7回ほど聴いた。すると記憶の層(カンバス)に音の有無が塗りこまれてくる。だがそれは耳からの直接音が表から塗られるばかりではない。いつしか意識の裏/脳の裏からカンバスの裏面に塗られるような実感が生じてくる。私はそれを表脳作用に対して裏脳作用と名付けることにした。するとどうだろう。当然、カンバスの表に塗られる音の有無とうまく重なり意味の濃いものになって行くわけで、第一印象よりもずっと良くなった作品のなんと多いことか?

その高まりが他を引き離して大きかったのは二宮毅氏のDigital Disutance

失礼ながら会場では隣の天文学者(89歳)に「退屈で申し訳ない」と謝ったぐらいだった。ところが録画鑑賞を繰り返すうちに記憶層に一つ一つの音の有無が描きこまれ絵画が見えるようになって来たのである。この作品の場合、貧しい情報を必死に受信し意味を読み取ろうとする努力は私の物であり作曲者二宮氏の物であり、当初の劣悪な印象は消滅し、充実した意味を内蔵した芸術作品に変貌したのである。

「音楽は抽象だ」とはよく言われるが、この作曲、鑑賞ともども典型的な抽象化であり共同作業であったと言えよう。

私はいつもプレイバックを繰り返しつつ作曲をする。鑑賞する時間の方がはるかに長い。それは表脳より裏脳機能を優先しているからだ。裏脳は自我や交感神経とはある意味、無縁と言える。そしてそれの大本である有/存在の裡は生死を超越している。死とは生ける人間にとって未来の領域にある。現世の人間にとっては“むしろ”あちらの領域に思いを馳せた方が有そのもの/存在そのものを純粋に直覚出来るのではないだろうか?その未来領域は脳を対象化して観察するだけでは見つかる筈はない。なぜならそれは脳に先立つ領域、脳を未来から支え、情報が送り込まれてくる領域だからである。私はそう思う。

-作曲家に訪れる寝起きの流入情報に深謝しつつ 2021.12.17ロクリアン正岡

 

補記:なお拙作「不可知なるものへの往信」演奏担当のご両人は本番3か月前から練習を開始、本番に至るまでその持てる音楽性、知力、体力、集中力によりこの難曲の求める音楽が実現した。ピッコロ/フルートの大岡三佐子氏、チューバの本橋隼人氏の健闘を称えたい。

 

チューバ演奏者の本橋隼人氏のコンサートレポート

今回で3回目の出演者になります。初めは今まで現代音楽に触れる機会がなかったのでその音楽をチューバで奏でること自体不安や本質的に考えてみたところで難しすぎると思っていました。でも、心の中にはどこかにチューバで挑戦してみたいという気持ちはありました。管楽器は歌と違い歌詞はないけれど、取り組んで行くと作曲者がもしかしたらこんな感情を伝えたかったのかなとか描いている世界観にどっぷり浸かれまして体内に何か新しいモノが宿りおどろおどろしく掻き回される感情に、そんな魔力が楽曲にはありそれが楽しくもあります。

 今回ピッコロ/フルートとテューバというかなり珍しい二重奏でしたが音合わせをしている段階から、「楽しみだ」と思えてきて、本番はホールも含めて本当に音楽が宿るというか不思議な経験でした。たった二人だけですが、全ての事が一つにまとまっていてすごく繊細で整っている、そんな曲に出会えて圧倒されました。
 最後に、会場や配信で見てくださった方に感謝とこの感動と幸せを忘れずにこれからもテューバを演奏したいと思います。

 

フォーラムコンサートを終えて -ピッコロ/フルート 大岡三佐子

 今年も再び、この舞台に立たせていただいたご縁に感謝しております。このフォーラムコンサートでロクリアン正岡先生の作品を演奏させていただくのも3度目となりました。演奏をする自分やお客様と同じ時代を生きる作家さんの作品を初演する事の緊張感や、やり甲斐は何度経験しても大変有意義なものです。回数を重ねるごとにロクリアンさんのお人柄にふれる機会も増え、音楽に対する情熱と志が、ロクリアンさんの少年のような純粋さとともに作品にそのまま注ぎ込まれていると感じるようになりました。難しいと受け取られがちな現代音楽というジャンルで(難しい事が悪いことではないと個人的には思っていますが)ルールや定石を飛び越えてお客様にはその剥き出しの音楽がきちんと伝わっているのではないでしょうか。私たち奏者も楽譜だけに向き合うのではなく、作家さんご自身の言葉に耳を傾け、さらに作家さんにもこちらの意思を伝え相互作用を起こす。そうやって作品を作ることができるのが現代音楽の素晴らしいところだとも思います。良い相互作用が起こせるよう、作家さんの想いが伝えられるよう、あわよくば作家さんの想像を越えて音楽を奏でられるよう、奏者として日々精進せねばと身の引き締まる、そんなフォーラムコンサートでした。

 

 
特報  2021.10.20
本日、音楽之友社より日本現代音楽協会の電子書籍
NEW COMPOSER Vol.15gaが発売されました。
なお、その中に私の参考楽譜付きの論文(文字数26000)
*「生死を超えた観点から音楽史の過去、現在、未来
を考える」

が掲載されております。

http://www.jscm.net/?page_id=6832
(そのほかの記事とともに)一年前のものになりますが、音楽という物の将来へ向けて、その存在の基盤ごと徹底的な検証を試みたものです。
どうかご一読いただけますようお願い申し上げます。

2020年 謹賀新年
昨年は一昨年に続き吹奏楽的室内楽(室内楽的吹奏楽)を
皆さんと一緒に楽しむ事が出来て幸せでした(具体的演奏
団体としては何といってもシュピール室内合奏団)。
詳しくは日本現代音楽協会のウェブサイト「フォーラム・
コンサートレポート」にありますが、作曲が如何に孤独な
作業であっても、やはり優れた聴衆、優れたパフォーマー
との循環運動に支えられているということを強く実感でき
た年でした。だが、私にとっては音楽性から作曲力までを
刺激し活性化するのに大変に役に立つ機関が別にあります。
それはあるNPO法人のことなのですが、本日そこへ送っ
た挨拶状を引用させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 来年も東京雑学大学は我がパラダイス?
 いろんな講師によるいろんなジャンルの講義があるけれ
ど、大方はその道のプロフェッショナルな真剣さと格調を
伴ったもの。それは講義の瞬間、その人のゲンナマである、
過去からの来歴、現在のスタンス、そして未来への希望や
不安等々も働き、その背後には無意識経由で魂にまで至る
全存在が俎板の鯉よろしく置かれているのである。
 一方の私はといえば、学習能力聞き取り能力まるで劣悪
な輩ではあるが、個(自分自身の、はたまた先生お一人お
一人の)を忘れ、双方がはたまた会場の方々が魂の故郷と
する全体=「不可知の何様」での”同輩”である、という信
念の元に心を空しくして講壇からやってくる全波長をただ
ただ浴びるだけなのだ。
 そんな「混浴」の勝義での気楽さを助長するのが「雑学」
という前提だろう。私は長く日本創造学会に在籍していたが
そこでいつも強調されていたのが「学際の必要性」。開学以
来25年、国内最高の雑学の府である当学の存在価値はこれか
ら益々高まって行くべきだと私は思う。元代表菅原氏、現代
表窪氏はじめスタッフ各位の今後ますますのご奮闘を願わず
にはいられない。
    -このような出会いを与える天の配剤に感謝しつつ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 たとえば、ある講義「生活と物理」では「月はなぜ落ちな
いか」という題材が提示され、その後に「雅楽早分かり」と
いう講座があり笙の作り方から生演奏にまで接することがで
き、それを次の講義「万葉集の花園を楽しむ」でイメージを
練り楽曲構想のための力にする。これは私の楽曲がメッセー
ジ内蔵タイプだから必然性十分な栄養源と言えましょう。
 講義では毎回、質問の時間が十分に与えられている。先生
と言えども宇宙の同輩、馬鹿のように頭をぱっくりと開き、
子供のように無垢なる質問をぶつける、というのは如何にも
作曲家、音楽家に相応しい態度ではないでしょうか?という
のは、音楽は文章と違い、本質的に疑問形だからです。だっ
て音や音楽はいつも将来未来から飛び込んで来るもんじゃな
いですか?メッセージ発信タイプの作曲家や諸ジャンルの芸
術家は一度覗いてみては如何でしょうか?
 それと「雑学」の良さは、お互いジャンルが異なること多
く、自我の高ぶりを起こさないという利点があります。人の
心や頭に観想的、観照的態度を促す効果、これは見逃せない
要素でしょう。
 こんなことを書くのも現存の作曲家同士や音楽家同士、個
人的感情で耳が壊されて賞味も吟味も出来ないケースが確認
されたからです。
 その点、日本におけるフランス流作曲法の草分け的存在、
池内友次郎(いけのうちともじろう、高浜虚子の次男)の一
言:「どんなに仲の悪い音楽家どうしでも、その曲やその演
奏がよいと思ったらそれを相手に伝えられる、それが真の音
楽家だ」はまことに至言。
そうでなくとも姑息な楽曲の多い現代音楽ジャンルの諸作品
であり、その当たりを改めるところから再出発してはどうで
しょうか?
 ベートーヴェンは「25歳、男がいっぱしの仕事をやるべき
年齢だ」と宣った。私は来年はその三倍。「いくらなんでも
こんなんでは」と焦るままに元旦を迎えます。

 とまれ、皆様とともに
   去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如きもの
                       -虚子
2019.12.31 西東京市彼岸氏不死身
      作曲家ロクリアン正岡


(本HPのURLは 
     
 locriansaturn.com 拡散希望)




当日のプログラムと第3曲についての詳細な説明
はinfoページにあります。


最新特報!
ロクリアン芸術の三曲〔極)の到達点で
現代音楽をその自縄自縛から解放しよう!

 今度の出品曲ならそんな現代音楽に風穴を
空けることぐらい出来るかもしれない。
 11月29日のゲンオンのフォーラム・コ
ンサートに於ける三曲の演奏、昨日シュピー
ル室内合奏団の初回合同練習に立ち会いまし
たが皆さん驚くほどのレベルに到達しそうで
す。
 現代音楽の不況は自らの自縄自縛性にある。
世界中の作曲コンクールや夥しい数の作曲審
査、自縄自縛の元凶であることは言を待たな
い。その中で希少な例外が当楽団主催の作曲
コンクールで今回出品の私の3作のうち2作
が最優秀賞を授かった。とまれ、最先端のク
ラシック音楽という現代音楽の勝義に照らせ
ば今回のものも紛れもない現代音楽です。
だからこそ風穴を空け外の空間、未知の領域
まで大きく羽ばたいて行くことが出来るので
はないか?
出演はシュピール室内合奏団。
詳細は日本現代音楽協会のウェブサイト

2019.11.17 ロクリアン正岡


「猪のアイデンティティー」/猪賛歌・第一曲
亥年の今年、猪ならではの歌をと思い、作詞作曲しました。
思えば猪ほど生命団子というか生命そのものを思わせる動物
が他にありましょうか?
まことに外見の通りの正直な生き物。
人間も本来与えられているはずのヒト性を大事にし、うそ偽
りなく内面に忠実な生きかたをしてはどうだろう!
これが私が出来る限り猪となって作詞作曲をした所以です。
どうか音楽の猪鍋に耳鼓を打ってください。
-2019.10.9 地球環境改善に意欲を示す吉野彰氏ノーベル化学
賞受賞のめでたい日に


緊急特報 2019.9.24
グレタ・トゥーンベリ国連で怒りのスピーチとはすごい話だ。
私は長いこと「地球を救う聖女”キャシリアン”」という歌を書き自らもコンサートで歌い人々にも歌ってもらい初音ミクにも歌わせこういう人の出現を待っていたのである!
聖女”グレタ・トウーンベリ”の登場を記念して、しばらくここに件の動画を掲げることにした。彼女が歌っていると思ってじっくりお聴きいただきたい(本当は彼女に聴いてほしいし歌ってほしいのだが)。



お知らせ-

来る1129日(金)のフォーラム・コンサート(日本現代音楽協
会主催)第2夜において

小編成吹奏楽セット「シュピール室内合奏団作曲編曲コンク
ール」を発表いたします。

これは昨年の同楽団主催による「第三回作曲編曲コンクー
ル」の全部門について試みた拙作(作曲部門では一位)ばか
りでできた組曲ですが、それぞれの楽章の落差は非常に大
きいのになぜか強い統一感(どうあろうがロクリアン流の所以からか)があって、セーフティーネットに保証されながらビックリ
しまくれる、というものです。

もともと高い実力を誇る同楽団が十分すぎるほどの合同練習を経ての本番になりますので、ロクリアン音楽にとって最高の出力タイムとなろうかと存じます。

皆様どうかお誘いあわせの上ご来場ください。


第1曲「ニッポンの 空にくつろぐ バッハかな」
 https://youtu.be/2i8r-Z4S0GI


第2曲「ドコモわが故郷」

https://youtu.be/-2wimkytEaY



第3曲「美人ミイラ組成物語」


https://youtu.be/C6ITeXVFX1o

 

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2019年 謹賀新年


 
2018年は前年末からのバイク少年的な若者
に煽られる形でサックス楽曲を量産、その後、
必然的に小吹奏楽曲に向かいコンクールを開
催していたシュピール室内合奏団との関係を
持ち、更に新たな構想を得るなど、今までの
長い人生の中でも本職上一番収穫の多い年と
成りました。増えたメル友との知的やり取り
がどんなに創意欲を募らせてくれたか筆舌に
尽くしがたいものがあります。ただ、演奏者
はせっかく拙作の名演奏を繰り広げて置きな
がらメル友の仲間に入って来ないのは若さの
故もあるでしょうが、現代の世相を反映して
いるのかも知れません。そんな中、若い集団
であるところの、シュピール室内合奏団が結
果発表に際し演奏者お一人お一人の講評が付
けられて来たのには感動を禁じえませんでし
た。
折りしも日本音楽コンクール作曲部門ではい
い加減な理由付けで演奏審査をカット、おま
けに音楽団体からのクレームに対してお役所
仕事的対応しかなかったこともあり、一層際
立った出来事でした。世の中全般としてはIT
やバイオテクノロジーの発達で人間性がより
人工的に蝕まれる状況が一層加速しているよ
うです。
しかし、常識も化学も預かり知らない事象は
あるもので、世の中が偏った方向に進む時に、
少数でなありますが確実にそれに抗する活動
をしようとする者が現れて来ます(後述)。
また、驚くべき事にそういう素質を持った者
が誕生して来る機構を、人間以前の宇宙は持
っているようなのです。とまれ、世の中全体
として”人間の自然性”やそれへの関心が著し
く減退していると気づいている方は結構いら
して、たとば「壁」シリーズで有名な養老孟
司氏もそのお一人のようです。
この問題には音楽家は文学者以上に拘るべき
事だと私は思います。なぜなら、音楽は言葉
よりもはるかに”無意識の領域”に深く棹差し
ている(その本来の意味で!*)からです。
振り返ってみれば現代音楽はシェーンベルク
以来、先輩作曲家の創造力に負けまいと意識
的に創意工夫を続け、それが当初思ったよう
な効果を発揮していない事を知るや、純粋な
創造意欲が薄まるのに比例して楽曲捏造術の
開発に腐心して来たようです。楽曲達はお互
い多岐に分裂しその部分化、断片化は著しく、
個性、独創性の名の下に普遍性が無視されつ
つある、というより「普遍性なぞあるわけが
無い」という病的な想いが作曲界を覆い、そ
の傍ら演奏家の多くは過去の遺産の持つ普遍
性の脛をかじっている現状なのです。
いずれにせよ、現代は常識が体をなさなくな
ってきておりドサクサ紛れに似非独創のまか
り通る時代でもあります。先の「棹差す」を
はじめ多くの言葉の誤用も、独創的な使い方
を気取る甘ったれ根性の働きが大きいに違い
ないでしょう。だが、私は信じます。こんな
時代だからこそ、天然は新型ウィルスのよう
な強力ベイビーを生み出さずには置かないこ
とを。私の楽曲が、少しでも彼ら彼女らの心
眼を目覚めさす役割を果たせれば幸いです。
-この一年の奮闘を心に期しつつ!


2019年 初頭 作曲家ロクリアン正岡






 シュピール室内合奏団による
小編成吹奏楽曲
「美人ミイラ蘇生物語」
第一回目の合同練習でプロの演奏能力
が現代どれほど進化しているか、また
これからのノビシロが如何に大きいか
を強く感じた。12月4日(73歳の
誕生日)に私の同楽団主催の作曲コン
クール最優秀賞授賞さ作品、小編成吹
奏楽曲「美人ミイラ蘇生物語」を演奏
するシュピール室内合奏団のことであ
る。
7年前の八重奏曲をつとして、一年の
ほど前から始まった我がサックス楽曲
の集中的創作が次に求めたものは小編
成室内楽曲であった。どうせ作曲する
なら具体的な文化寄与をしたいものだ
とネットで調べたらすぐに出て来たの
が第三回作曲コンクールあったという
次第。
ピアノを含んだ八重奏で5分、となる
とどうしても大きな物語というか、深
く大きく広いメッセージを音楽に託し
たくなる。
というより、私はメッセージを背負う
ことなくしては小品すら書けない作曲
家なのだ。
私は楽器のことをロクに知らない。
その分、メッセージと音楽イメージを
媒介する楽譜作りに集中的に腐心でき
る。だからこの年齢でも作曲進化が続
いている、いや加速している。思えば
近代以降の日本の西洋クラシック音楽
の演奏能力がかくも進歩したのも、楽
譜を元に”現象としての音楽”作りに励
んで来たからであろう。
演奏家、作曲家の役割分担が徹底する
中、それぞれの持分の力量が増せば増
すほど、双方とも相手のことが分かり
にくくなった、とは穿ちすぎた見方で
あろうか。
強調したいのは、それを補うのが楽曲
説明。演奏説明であり、合同練習であ
るということ。だから生きた作曲者が
演奏者に付き添う意味はあるのである。
そのプロセスを経て、本番ではどれほ
どのメッセージ開花がなされるか?
もちろん、開花の場は集まった聴き手
一人ひとりの脳裏である。いきなり耳
に入ってくる耳新しい音の数々や音の
並びにもかかわらず、もし「美人ミイ
ラ蘇生物語⇔美人ミイラ臨終物語」に
託されたところの、”この世の裏側”か
らのメッセージが感じられたとしたら、
第一に褒められるべきはお一人お一人
の鑑賞能力と言うものであろう。なぜ
ならそれは人間の聴覚、心、魂、意識
の総体の質の高さを示したことになる
のだから。
*コンサートの日時、場所については
infoページにあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
特報

コンサートのお知らせ
来る(2018年)11月30日(金)
新宿のオペラシティリサイタルホール
でのアンデパンダン展で元気のよい若
者3人が「バイク少年3人組みライブ」
(←「クセナキスのザスについての共
感と批判」)の精一杯の演奏を披露す
る予定。詳しくはinfoページをご覧く
ださい。
なお、同じく日本現代音楽協会主催の
「現代の音楽と対位法」(2019年
3月1日(金))にも出品します。
乞うご期待!



・・・・・・・

2018年 謹賀新年
以下、新年のご挨拶に代えて

1)私がロクリアン正岡と名乗り始めたのは1998年、今からちょうど20年前のこと。当時、この脳のロクリアン化が進みつつあり次のようなことを考えておりました。「人間の脳というものは宇宙の高密度で高性能の部位であり、宇宙に遍満するその叡智を受信することがそれ本来の使命ではないか。それなのに人間は普通それを自分だけの所有物として自分の人生のためにこき使おうとしているがそれでよいのだろうか。私は、できるだけ脳の宇宙性が求めるままに任せたい。」などと考えておりました。(このことは1986年の日本現代音楽協会主催秋の音楽展で弦楽六重奏曲「マックス・エルンストへのオマージュ」改訂版のためのプログラムノートに明記してある)。さらにその後、宇宙は何もないところからポッと出てきたのでも“自生”し続けているのでもなく、「存在そのもの」とでもいうべき力に与っているという思いが私の中に台頭して来たのです。

2)ところが、このことが哲学者ならいざ知らず、なかなか人には理解されません。科学的思考や人間誰しも持つ自身の知覚信仰や、はたまた既存の神概念までもが存在忘却に寄与しているらしいのです。
(以下、言葉使いが変わりますがお許しください)
人類は、身体の内にも身近な外界にも現象を覚え、遠くには星の光などを感じ取りながらすべて自己中心的な時空という枠の中に入れ込み、中身を増やしながら枠を拡張して来たのだろう。現在想定されているダークマターやダークエネルギーにしたところで同じ孔(あな)の狢(むじな)であろう。このような心的傾向は実は太古の昔からあったのではないか(敢えて極論すると、肉食動物の獲物を狙う時にも)。感覚を頼りに対象世界を開くという欲求や機能なしに科学も技術もありえない。ここでは、その精度や論理の芽生えや発展進化には言及する必要がない。私は、動物も持つ対象化の行動に始まり対象世界を開きまくり、挙句の果てには「対象世界だけが実在だ」という現代人のますます過激化した思い込みを指摘したいのだ。宇宙もそうであれば脳も対象物扱いで、脳科学がもてはやされるのも道理である。

 3)従ってこの先、“脳”ではなく“意識”を問題にしよう。
私は若い時「意識解剖学」という言葉を編み出していろいろ考えていたものだが今思うに-
“意識”は対象化を志向しもするが、その逆方向にも向かう。意識は自由に振舞おうとするが、じっと立ち止まって自分自身のあり方や成り立ちを感じ取ろうともする。芸術が科学ほど単純でない所以がここにある。科学は無*は扱わないが、芸術は無を扱う、というよりも無に依拠しようとする。科学は無にものの欠如しか認めないが、芸術的創造は無の生産力に習おうとする(この際、それが父か母か、種か卵かを問うのは性急というものだろう)。

4)演奏家はよく「音楽は瞬間芸術である」などというが、それは音楽の現象面しか見ておらず、そこに音楽の実質を置こうとしているからだ。いかにも情報時代から超情報時代への趨勢にある現在にありがちなあざとい意見だと思う。これでは音楽の実体は取り損ねられたままであり存在忘却は進むばかりである。それは進行癌であり“意識の自殺行為!”の気配を私など覚えるがいかがだろうか。

依然ある女性舞踊家の大御所は「踊りの振る舞いは瞬間的にどんどん消えて行く。だからいいんだよ、助かるもの」と本音を堂々と語っていたが、今度のアンデパンダン展一つ取っても作曲家たちの多くがせっかく初演された曲なのにどうしてネット上に音楽動画を掲げないのか、私にはよく理解できない。が、おそらく現代の、とりわけ若い作曲家たちは演奏家と同じような音楽観に染まりつつあるのだろう。

5)それでも演奏者はプロ、アマ、卵を問わず、やりがいを失うことはない。なぜならテキストというルール集が与えられ、その通りを繰り返すことでどんどん上達できるからである。感覚と運動神経に優れていればなおさらだ。体操を始めスポーツ競技の進歩は目覚しいものがあるが、音楽も同じこと。現象としての音楽のレベル向上は見てて愉快にさせられるほどのものがある。形容詞を使えば、年々「輝かしくなっている」というところではないか。だったら美しくていいじゃないか、となりそうだが・・・。輝いているものは何か?それは嘘の輝きにすぎないのでは?輝く表皮の裏はおぞましい空洞なのではないか?「輝き活動」は人間の本来性に照らせば、実は大の“気晴らし”に過ぎないのではないか?

6)このような心の隙はなにも音楽家だけのものではないだろう。「AI(人工知能)に音楽は何か分かる時が来るのではないか?いままでにないような新しく素敵な曲を作ってくれるのではないか?」という甘い期待の念は膨らみつつあるようだ。実際、AI経由でも現象としては音楽らしいものが生産されるようになって行くだろう。だが、土台かつ所詮、AIは宇宙的叡智への感受性はなく、存在そのものに直接与ることはできないだろう。AIに意識や魂があるように見えるのは、人の意識や魂が自らを投影するからである。その点、AIはヌイグルミと変わるところがない。こんな世間の風潮のなか、ルール作りの大役そのものである作曲はどうなってしまうのだろう。のっけからAIに頼る、あるいは気がついたら脳にAIが組み込まれていた、という作曲家が出て来たとしてもおかしくない趨勢にあるのだろう。

 7)いずれにせよ、音楽家も生身の人間であり、プロであるならなおさら音楽の文化的現状を肯定的に受け止めなければやって行けるものではない。
はじめは批判精神旺盛だった優秀な音楽学生も、世間に出てしばらくすれば批判精神は括弧に入れ、さらに時がたてばよそよそしい心のごみと化して廃棄するのみ、というケースが多いのではないだろうか。 それでもバッハの偉大さのもと、できそこないの作品群に批判的攻撃を加えるなんてことはありそうな話では在る。

8)本当に、これからの作曲はどうなってしまうのだろうか?今は演奏家の時代だとか言ったって、既存の楽曲にしがみつき乗りまくり磨きまくるだけではクラシック音楽文化は疲弊し衰退する時が必ずやって来よう。 これはクラシック音楽文化だけの問題にはとどまり得ない。クラシック音楽には人間に「存在想起」させる役目が在るのだから長い目で見れば人心に与える影響は頗る大きいのだ。しかるに既存の楽曲では人々の耳の慣れや麻痺もあり、演奏家がどんなに工夫を凝らしてもたいした効果は期待できないだろう。

 果たしてこの課題に答える楽曲の補給は可能であろうか?
若い作曲家の中でこの話に奮い立つ人は果たして?

 9)実は新年の挨拶であるはずが、このように本質的なことを長々とまくし立てて来られたのは、ある他者との接触の影響無きにしも非ずなのかもしれない。その人のことはネットで調べられるがブログ「作曲と思索の愉しみ」

 http://wood248.blog.fc2.com/blog-entry-236.html

の主である森さちや、こと森幸也氏という科学史家である。なにしろ音楽への食らいつきが尋常でないのである。「プロの音楽家でも音楽学者でもない人が」と思われるかもしれないが、そこが情報時代の良いところなのかもしれない。また、科学と取り組む歴史家である、ということも大きいのかもしれない。
「全体感なくして芸術音楽の解読は無理」というのが私の持論だが、この人は“意識の山”のどのぐらいの高さに位置しているのだろうか。

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さて、ここまでただただ観念まかせに大きなことを語ってきた私ですが、現実はと言うと自然界や人間界の諸相が犇めき合いもつれ合い、そこに分けの分からない夥しい空虚が介在しているこの時空にあって、明日をもしれない矮小な人間存在(実存)である身の上なのです。

 皆様におかれましても、この一年が真に有意義なものとなりますよう、心よりお祈り申し上げます。

 平成最後の元旦に ロクリアン・スタジオにて 作曲家ロクリアン正岡拝

なお、別の切り口からもこの問題に切り込んでおります。
ヤフーやグーグルで
「日本現代音楽協会 アンデパンダン展参加レポート」
と打つと出てまいります。



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*以下、動画をユーチューブに、楽譜はホームページにアップしてあります。

・於:1999年11月2日、市谷 ルーテルセンター
二重奏曲「メランコリア」
―アルトフルートとヴァイオリンによる
https://www.youtube.com/edit?o=U&video_id=99U1k5CH8ZY


・於:1981年 西ドイツ、メンヒェングラードバッハ
弦楽六重奏曲(指揮つき)「マックス・エルンストへのオマージュ」
https://www.youtube.com/edit?o=U&video_id=cagKEQcFrks

・於:2000年10月9日、府中の森芸術劇場ウィーンホール
ピアノパッサカリア「壊教」
―バッハのパッサカリアの場合
を若きピアニスト有森直樹氏の優れた演奏でお楽しみください。
https://www.youtube.com/edit?o=U&video_id=16s8vct1LiQ

なお、論評も出されています。
 http://wood248.blog.fc2.com/blog-entry-236.html

・11月29日、新宿の東京オペラシティリサイタルホールでの現音アンデパンダン展出品曲:音楽昇華術・Ⅰ「ある夫婦の物語」―クラリネット〈夫役〉とヴァイオリン〈妻役〉による-2017

https://www.youtube.com/edit?o=U&video_id=eTCWWPVRWmE
 
*最近ちょくちょく楽譜を掲載しておりますが、展覧会
「怖い絵」
が余りに良かったので
変曲
「怖い”アヴェ・マリア”」の動画とともに楽譜も掲載いたしました。
心が求めた時に試奏して見てください!

https://www.youtube.com/edit?o=U&video_id=jC5nuTHKoOw


1)critique(批評)のページに書きました。
 一回目は
「物理学者:一丸節夫氏を巡る数名による議論」で、多岐に渡りますが、意識の高い人には楽しんで頂けるのではないかと、力を尽くしました。2017.10.6
力強いコメントを得て、話は医療という私たちの生活現場へと広がっています。

2)
infoのページにこれからのコンサートのご案内を
書き込みました。2017.10.06



特報!
わが最新作「聴能力全開のための六重奏曲」の楽譜をSCOREのページにアップしました。


特報!

今回、わが弦楽四重奏曲、第2番、第3の楽譜を掲載し、またSQ3の生演奏をユーチューブ(いずれはニコニコの音楽カテゴリーにも)に投稿することにした。 いずれも後世へ向けて演奏されることを望むが、とりわけSQ3は幾何の難問に対する模範解答を思わせるようなカチッとした出来で、ゴッホの言う芸術的典型に達しているもののように思えるがいかがだろうか?
また、この錚々たるメンバーの演奏にはやはり見るべきものがあった、と今回再認識させられた次第です。音が立っているのです。
以下は、そのSQ3「異形・日本・かぐや姫」!現代曲としては長い方ですが、一瞬の緩みもない音楽のことゆえ、最後まで通してお楽しみください!
2017.6.16
実演!ロクリアン正岡SQ3「異形・日本・かぐや姫」

弦楽四重奏曲第2番「あの世から愛されし”喜怒哀楽”」


特報;ロクリアン正岡、今までで一番の力強い楽曲「聴能力全開のための六重奏曲」をユーチューブに投稿しました。PC音源ですがあなたご自慢の聴覚を煽る力は他に負けてるものではない、と存じます。お楽しみください。2017.4.2


特報;ついに始まった!
 ロクリアンCMソングシリーズ-

本日3月3日ひな祭りの日だからこそでもありますが、その第一弾に相応しく不動産業のためのCMをまずはユーチューブ投稿いたしました。
題して「ロクリアンハウスCMソング」です。
こんな”腹”の商売人いる分けない!と御反応の
あなたも、せめて「こんな商売人いたらなあ」ぐらいの妄想はもてるように成ったらいかが?
楽譜もここのSCOREページにあります。
歌うだけで気分がよくなる易しいメロディです。
さあ。どうぞ! 2017年3月3日
桃の節句

特報;
以下にある通り、2月8日深夜未明に楽譜をHPに、動画をユーチューブにアップいたしました。なお、楽譜は歌詞の読めないところがあり、近日中に直します。
演奏家の方々-Sp.薬師寺典子、Tn.金沢青児、Pf.大須賀かおりの皆さん-の「楽しむ」姿勢に乾杯!
組曲「死生共存」の公演の成功について謹んでご報告いたします。

21日の現代の音楽展(日本現代音楽協会主催)のアンデパンダン展の第一夜においでいただいたお客様に心より御礼申し上げます(来場者数171、ちなみに第二夜は200名余)。演奏は期待通りの出来で数日中には動画をネット(まずはユーチューブ)に掲げます。
また、ゲンオンのウェブサイトにも他の出品者のものに、感想、意見等々のレポートが今月末頃には掲載されます。

以下は、コンサート直後に頂いたある作曲家からのメール全文です。

長い間、音楽会から感動が失われて久しい。しかし、昨日の兄の曲は違った。あれほどの音のエネルギーの自立的な推移と必然性が、人の心を否応無く感動へと運んでしまう曲は、極めて稀だ。兄の曲が良いという言い方は、照れくさくてできなかったので、「名演だった」と兄に告げてひとり帰ったが、目が覚めて、あらためて感心するとともに、兄の置かれた、いや、兄ばかりか私達日本の作曲家たちの置かれた状況を、考えざるをえない。まず、日本語という言語の非音楽性。日本語は響きが下にあるために、西洋流のベルカントには絶対になじまず、能、演歌など、響きを下に落として地声を旋律にする。5つの母音のうち、鳴り易いのはA,O,U,E,Iの順で、A,O以外は殆ど響かない。この点で、「死無」は最悪であった。しかし2人の演奏家は、よくそれに耐えて、オペラのクライマックスのような圧倒的な音楽的頂点を導いた。それから、歌詞は、ほとんど聞こえないのも、毎度のことだ。これも兄のせいではなく、文化全体の問題だ。私と妻にとって、日本語の聞こえるうたが、長年の課題であった。この点につては、私たちはほぼ解決したと思う。兄の今度の曲で一番の問題は、曲の構造的崇高さに比べて、歌詞の今日的な軽さと、卑近さのアンバランスだと思う。しかしこれは、兄の気持ちが分かるだけに、今日の日本の音楽的状況の悪さを、呪うだけだ。とにかく、めげずに作曲するのみと,我が身に言い聞かせながら、兄に御目出度うを言おう。2日朝。
  以上、2017.2.5ロクリアン正岡編集



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新年2017ご挨拶

 さあ、人間たちに“宇宙自身”としての自覚を促しうる音楽の潜在能力の開発を始めよう!

1)ちょうど、一人の作曲家の作曲史はか細いしその生産楽曲も微々たるものであるように、過去の大作曲家を中心とした作曲史もか細いしその生産楽曲も微々たるものである。

昨2016年、私は作曲活動を始めて以来、質量ともに一番の生産物を物にした。

その過程で分ったことは、音楽の潜在的能力の大きさであり生産可能領域の広さであった。

私が気づいた限りですらこうなのである。

自分の作曲能力に拘るな!音楽の持つ潜在能力を解放せよ!

こういっても漠とした印象のそしりは免れまい。だが、音楽の働き、役目、機能、作用、といったことを、現在、既に人類が立ち行くことが難しくなりつつある状況で一体何が求められているのか、ということとセットで考えて行くと、いよいよ音楽の潜在能力の出番だな、ということが生々しく感じられてくるのである。

それは、音楽を受容する側の能力を引き出す力の強い音楽が求められている、ということである。

 音楽史上には、発信型、いってみれば「声」タイプの楽曲ばかりではなく、そういう聴覚的機能を大切にする楽曲も多く現れはした。だが、土台かつ所詮、作品を物した能力が主役であり続けた。これはやはり聖書の創世記の「この世を作った神」に倣う意思が働き続けて来たからだし、「神」忘れの現代においても、人間主体に長いこと刷り込まれたこのような意思に逆らうことは難しいということなのであろう。対象なら否定しやすいが、自分の事となると否定するどころか気づくことさえおぼつかない。

 2)正月用の新年の挨拶なので、余り長く記すことはしたくない。途中を飛ばして続けると-

日本人あたりなら、創世記に準拠する意思など、もともとないままだ。明治以来、日本人作曲家たちは西洋音楽や西洋作曲技法を持続的に熱心に学び「西洋音楽語」の“読み書き聴き話す”ことに習熟して来た。創世記に準拠する意思など持たぬままに。今は、「だからダメなんだ」ではなく「だから凄いことが出来るんだ」ということを分って頂きたい。要するにこの日本人の弱点を強みと読み替えるのだ。

倫理的なことを比喩で言わせていただくなら、患者の為のお薬は、作り手側の個性や能力を顕示するものではない。もしそんな薬が作られ与えられるとしたら病人は本能的に違和感や恐怖を感じ飲まないだろう。これからの音楽には、このお薬、あるいは料理(食事)のようなものが強く求められるだろう。まだ、そのような音楽はほとんど現れていない(いわゆるヒーリング音楽など薄弱この上ないものだ)。したがって、人間の受容能力(咀嚼消化吸収)を最大限に引出し、自己治癒能力にアピールできるような楽曲が求められている。そのとき、音楽は鑑賞者にとって、自分自身を味わいつつ鏡に映し、鏡に映しては味わうものと化すだろう。個々の人間が、人類全体が、いったいどっちの方に進んで行って良いのか、何をやったらいいのか、正直分らなくなっている時期に突入しているのだからこそ、このような音楽の働きに頼らねばならないのである。音楽は自己認識を促してくれる。

3)「音楽を聴く」、それは非常に“怠け”の要素の勝った有り様なのである。もちろん、「音楽をする=演奏する」方(ほう)以上に。それは摂食や睡眠に非常に近い。鑑賞者は、音楽と合体することにより自分自身を縮小して行き、自分の中の宇宙性を解発するのだ。その時、普段の自分自身では到底気が付かないことに気づき、教えられることになる。宇宙的、更には宇宙の根拠からの叡智に触れるからである。

すでに、私の楽曲の鑑賞者のうち、もっとも良質な方々はそのような体験をされている模様なのである。その場合、その楽曲は単に触媒に過ぎない。彼らが宇宙の一分子として潜在的に持っている大事なものが目覚めつつあるのである。

 4)人類が、自己発展する科学技術をエンジンとする現代文明に引きずり回されつつ混迷に瀕し先行きが見えなくなっているのは、人間一人一人の、はたまた人類としての自己認識があまりに低いレベルにとどまっているからである。

人間はまずは火を発見した。そしていくつかの画期的な発見や発明により人工力を発展させ過ぎ、今、自らの自然性とのバランスを壊すに至っている。

これは地球温暖化など外的自然破壊よりももっと切実な問題に違いない。騒がれている外的自然破壊からして内的人工力の異常な高まりが元凶だからだ。

音楽は人工性と自然性の中間物だが、それでもあらゆる芸術の中では最も人間の自然性を触発できるものの一つであろう。

宇宙的な、更には人間を含んだ“宇宙の根拠からの叡智”の導入は、音楽鑑賞側の無尽蔵の受容能力の高まり一つに掛かっていると言っても過言ではあるまい。

2017年を新音楽誕生元年としたい、いや、しなければならぬ。人類が立ち行くために!

   2017年(平成29年)元旦

・・・・・・・・・ 
お知らせ    

(2016年)12月30日に1998年にロクリアン正岡を名乗るために作曲したその後のロクリアン正岡の礎となっているロクリアン交響曲「”7”の神通力」-(室内orフル)オーケストラによる の楽譜と説明をSCOREのページに一挙掲載、それと同時にユーチューブ並びにニコニコ動画にも音源アップいたしました。パソコン音源と大変相性の良い楽曲化と存じますが、ライブ演奏では更にその上を行く演奏を期待いたしております。
 これからも、作曲の合間を見ては旧作の掲載に努めてまいります。どうぞよろしく!

 
特報 

新作、ロクリアン・ラヴェル作「痴漢撃退“シ”のボレロ―歌:初音ミク」を520日にユーチューブとニコニコ動画にアップいたしました。なんと51日「ボレロ」が使用フリーとなったばかりですが、M・ラヴェル氏の御気持は如何に?

今回、「ボレロ」も弄りまくって思ったのですが、「これを、かの作曲御三家の“バモベ”ことバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが聴いたら真っ青顔になるだろう?」、というのも音楽の本源的特性に徹底的に準拠しているからです。

 

以下は某氏へのメールです。

1)ボーカロイド(初音ミクなど)をもじって”ボーレロイド”

そう呼びたくなるほどのボレロです。

  今度弄りまくって思ったのだが、あれは、楽曲版の初音ミクですな。初音ミクは歌手

版のボレロというわけ。

シェーンベルクらの新ウィーん楽派などどこ吹く風、華美なデザイン風でありなが

ら、その構造には、存在への素晴らしい洞察が働いております。

主題はABの二段に分かれますが、

伴奏は淡々と一度と五度にいるまんまです。

 

Aはメロディも”白い音(LMのいう)”ばかりですが、A7小節以降、二度と五度に

変わりもしない、というところが物凄い!

和声を知っているわれわれは、すぐに保続低音を連想しますが、あの求心力、や集約

力、統一力とは、全然違うもの。

私には、まるで、「この世もあの世もいっしょよ』とぬけぬけとラベルが言っている

ように感じますがいかが?

                            ―メール文はここまで

 

とにかく、ドイツ人から絶対出て来ない、実にフランス人的な発想であり音楽であると言えないでしょうか?

 

すでにユーチューブの説明文やフェイスブックでも縷々述べたところであるが、ここではニコニコ動画のものを引用しましょう。ポイントは「空性力」*にあるのですが。

 

満員電車で女性が朗々とボレロを歌い「シッシシシ!」と無声音をまき散らすと痴漢らしいのがすごすごとその場を去ってゆく-そんな平和的光景を夢見ての本作だ。発端は「勇気ある女子高生考案のバッジが車内の痴漢抑止の効力発揮」(48日の朝日新聞夕刊トップ)の記事。ならば、音楽も負けてはいられない。ボカロキャラのミク、楽曲「ボレロ」、筆者のロクリアン脳が一致団結すればとんでもない”空性力”*を発揮できるはずなのである。余りにもあっけらかんとした明るい雰囲気に「痴漢に相応しくない!」と戸惑う方々もおられよう。だが車内での慎重で陰湿な痴漢は日本独特なもの。この音楽は太陽のような乾燥力で満員電車の痴漢生息環境を消滅させるかも?M・ラヴェルの痴漢の真反対のような眼差しが頼もしい。

 

*空性力?

これは私LMの造語でしょう(さっきまで「空力」としていたのですが、これは別の意味がありますので変えました)。

空っぽと言えば、ただただ空虚でムナシイダケと感じがち思われがちですが、決してそうばかりではありません。

真空の筒があるとして、その蓋を開けたとたん大変化が生じるではありませんか。

こう言ってよいかどうかですが、満員電車内の男が抗しがたい女子高生の吸引力?も一緒に出来る話かもしれませんね。

 

そんなわけで、あるいは逆説的かもしれないけれど、

「痴漢撃退」に永遠の効果を持ったものとしてモーリス・ラベル氏の「ボレロ」を用いたことは正解、ほとんど唯一と言って良いぐらいの正解ではなかったでしょうか?

      2016年(平成28年)521日朝 



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謹賀2016
年(平成28年)

 新年は現音のアンデパンダン展が2017年の2(3)になるとのことで主にネット上での展開になると思います。

 ただし、「精神の上半身」あるいは「意識の中心」が!!あの世にある!!ロクリアン正岡の特性―これは他者からも良くも悪くも言われていることです―を今まで以上に発揮すべく、この世への突込みをさらに強化し皆様の脳にビリビリ(美理美理*)と迫る楽曲を配信することを誓います。

 こんなことが出来るメディアは何をおいても音楽であり、また人の業としては作曲であります。

ただ、音楽の場合、体験側はどうしても美(*)的快感のみで終始しがちです。真(*)的快感をも体験して頂くためにはLM音楽を裏打ちしているところの概念を表に出す必要がありますね。それについてはこのHPや現音のウェブサイトにも掲載されておりますが、今後も随時書き加えて行く所存です。なお、最近は我がロクリアン的天然脳の活動の場をフェイスブックにも広げおります。「ロクリアンスタイルの喜怒哀楽」を生でお楽しみになりたい方はこちらの方も覗いてみて下さい。

それではこの一年、皆様ご一緒にこの世に留まりつつ参りましょう


お知らせ(2015.12.25)
念仏楽曲「時を貫く“南無阿弥陀仏”」―声とアンサンブルによる、を他2作とともにユーチューブへ動画アップしました(12月04日古希の誕生日に)。
Linkのページからどうぞ、

また
「念仏楽曲の発表を経て得られた今まででのロクリアン正岡最高の音楽存在論1600文字」
をPhilosophyのページトップに掲げました。

”ロクリアン哲学” 創建!
哲学は動詞だ!
真の「哲学する」を世に問う、
パルメニデス以来の挑戦
「八木哲学の生体解 から>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>
ロクリアン哲学へ」
こちらへ

2015年7月 29日
元少年Aよ、よく聞け!八木雄二氏もお聴きください!ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の原典である旧約聖書(特に、その『創世記』)
から大バッハ、そして

「絶歌」


の論理に至るまで、
哲学の敵、「存在の謎を問い続けること」への敵である「割り切り」「決め付け」を批判する。 -音楽的生命の立場から人類の皆様へ」について公開しました
2014年12月 29日
「score」ページ作成しましたPDFにて公開中!ご自由にお使いください。
2014年11月 15日
ヴィオラ独奏曲「思念三態」
    ―“オノレ!サイコパス鬼女

動画アップロードしました
2014年11月 8日
講演会開催
弦楽五重奏曲(SQ+CB)
「残忍性の為の独房、霊性の為の要塞」動画アップロードしました
2014年7月12日
講演会終了
不可知の何様とクラシック音楽の臓物
動画アップロードしたばかりの正岡泰千代時代のカンバス・ミュージックのはInformationのページに
            
特 報!


直近の私の作曲を支える思想の開陳
↑ここをクリック
私は弦楽五重奏曲「残忍性の為の独房/霊性の為の要塞」の作曲においてベートーヴェン以来の
音楽“純粋創造”を果たした!
-母なる音楽家:フルトヴェングラーとの思考対決
日本現代音楽協会公式サイトへはこちら


ヨクナレ・シ・ナナリアン
(Cf.成れ、馴れ、鳴れ、生れ、慣れ、為れ、熟れ。七人
ーロクリアン天然脳による


譜面(クリックで拡大されます)

タンポッポフワーリ
ロクリア和声
 <iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/PDSkFeMVNFs" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ギャラリー

イメージ01

ロクリアン正岡作品集・Ⅰ

日本経済新聞の今週の一押しにも選ばれたCD.。ロクリアン旋法をじかに掴むのにはこれが最適。

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ロクリアン正岡作品集・Ⅱ

乙女三題というかわいらしいピアノ曲からローター・ツァクロゼック指揮の超複雑な弦楽六重奏曲まで満載。

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ロクリアン正岡作品集・Ⅲ

アニメーションにも使えそうな幻想性に富んだ曲が満載。異次元の寒冷な空気があなたをリフレッシュ!

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ロクリアン正岡作品集・Ⅳ

ここには、現代音楽の未来への突破口が10個ある。LMの潜在的作曲能力を調べるのに最高の一枚。

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ロクリアン正岡作品集・Ⅴ

ピアノや木管楽器がLMのあらぬ面を暴いた、珍品集。

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シンフォニックドキュメンタリー「あぁ!湾岸戦争」

電波妨害/情報戦争/毒ガスの夢/バグダッド大空襲/砂漠の嵐/環境汚染(とその後)

以上のCDはアマゾンや各楽器店(銀座ヤマハ店には現物あり)を通してご購入いただけます。また全国各地の公立図書館に置いてあります。

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